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2022年06月10日

東京の木製仁丹 保存へ

この度、東京都文京区は根津神社の近くにこのような木製仁丹町名表示板のレプリカを設置させていただきました。大正時代に9万枚設置されたという東京市の木製仁丹町名表示板、本来の姿です。

東京の木製仁丹 保存へ


当ブログでは2015年3月から1年間、「全国津々浦々の考証」なる記事を9回に分けて発表しました。これは1995年に発行された森下仁丹株式会社100周年記念誌「総合保健薬仁丹から総合保健産業JINTANへ」に記述されている『明治43年からは、大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり』という有名な一文について根本的に検証しようとしたものです。

結果、琺瑯看板が普及する以前のことなので、これらは木製のことを言っているのだと結論付けました。そして、ここに挙げられた都市の中でその存在が当時確認できていたのは京都と東京のみでした。京都は現物と古写真で、東京は古写真でのみ確認していました。ちなみにここでは例示されていませんが、大津市でも実物と古写真で、さらに舞鶴市でも古写真で確認できています。大阪は戦後の琺瑯製は現存していますが木製は未確認、名古屋は木製も琺瑯製も未だ確認できていません。

ところで特筆すべきは東京でした。東京都公文書館から大正7~9年におよそ9万枚を設置したと当の森下仁丹(当時は森下博薬房)が回答している文書が見つかったのです。

その詳細は次のブログ記事をご参照ください。
  全国津々浦々の考証(その4)~東京で仁丹発見!!!②~
  2015年04月08日 https://jintan.kyo2.jp/e464515.html

9万枚という驚くべき大きな数字、1枚ぐらい残っていないものかと誰しも考えるでしょう。しかし、直後の大正12年には関東大震災が発生し、戦時中は東京大空襲、戦後は戦後で住居表示の実施やバブル経済の到来と、旧来の町名表示板としては壊滅的な打撃の連続でした。仮に、万が一残っていたとしても所詮は木製、判別できないほどに劣化していて見つけることはできないだろう、などと話していました。

東京の木製仁丹 保存へ

ところがです!
ブログ「東京あるけあるけ」や「歩・探・見・感」の主宰者さんから、「これ、もしかして東京の木製仁丹の可能性はないだろうか?」との問い合わせがありました。根津神社の近くの木造家屋に付いている、パッと見“板切れ”でした。

早速、京都仁丹樂會東京支部(会員は基本的に京都市近辺なのですが、一人だけ東京に居住しているので、こう呼んでいます)が現地調査、次のような写真が得られました。雨戸の戸袋の一部としか見えませんが。

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正確には、この写真は2度目の訪問時のものです。以前は、この上に金属製の他の看板が被さっていて木製仁丹の上部と下部、ほんの少ししか見えていなかったのです。詳細は知りませんが、覆っていた金属製の看板が取れているとの知らせがあり、改めて訪問すると明らかに町名らしき黒い文字が姿を現していたのでした。

最上部には行政区名として左横書きで「區郷本」とかろうじて読み取れます。東京市本郷区は昭和22年まで存在し、現在の文京区の東部のエリアでした。

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次は中央部です。縦書きで「根津須賀町」と今度は明確に読み取ることができます。長年、金属の看板で保護されていたためでしょう。根津須賀町は昭和40年4月1日の住居表示の実施で、文京区根津一丁目の一部となりました。

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次に地番として「四番地」が現れました。国会図書館のデジタルライブラリで閲覧できる大正元年の「地籍地図」によれば当該地はまさに四番地でした。

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そして、最下段ですが金属製看板に守られていなかった部分なので劣化は進んでいるものの、かろうじて仁丹の商標の凹凸が見えます。

東京の木製仁丹 保存へ

いかがでしょう、見えるでしょうか? こんな感じでうっすらといらっしゃいます。

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町名部分などに凹凸が付いているのは、墨で書かれた部分とそうでない部分との木の瘦せ方の違いからだと推察できます。

このように東京の古写真で見た木製仁丹と書式も同じ、これはもう奇跡的に生き残った9万枚のうちの1枚と考えるべきだろうとなりました。

東京の木製仁丹 保存へ

さて、次にどうするか?です。ここまで分かったのであれば然るべき施設で保存しなければ朽ち果てるだけです。今のうちに救い出さなくてはと、しばらく悶々とした日々が続きましたが、今年2022年5月初旬、仕事で東京へ出張することになった京都在住の会員が、”東京支部”と共に現地を訪れました。すると、本体が割れてしまって地面に落下していたそうです。確かに設置されていた当時の写真を見ると、すでに木目に沿って縦に3分割になっているようにも見えます。

これはほっとけないとばかりに、家の方とお会いし、事情を説明するとともに保存に向けての提案をさせていただきました。とは言っても、見ず知らずの者が突然訪れて頂戴するわけにはいきません。とりあえず修繕するために預からせていただき、一か月後に返却することを約束して、承諾を得たうえでお預かりしました。

このように、あれよあれよという間に展開してしまい、その日のうちにその東京の木製仁丹は新幹線に乗って京都にやってきたのでした。早速、臨時例会を招集、実物を見分するとともに今後について話し合いました。

東京の木製仁丹 保存へ


次の写真は臨時例会で披露された修復後の姿です。裏から木を当て3つに割れていたものを合体させました。京都仁丹樂會には様々な年齢や職業の者が集まっているので、職業柄このようなことが得意な会員により細心の注意を払って修復させていただきました。

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大きさは、実寸で縦785mm、横177mm、厚み8.5mmでした。木材は乾燥や経年によって縮みますが、それは木目の向きにより割合も変わってきます。さらに節目部分は元々堅く縮みはほとんど無いと思われます。今回の場合、横の縮みは大、縦の縮みは小のはずです。このようなことから、元々の大きさは、尺基準で縦2尺6寸(787.87mm)、横6寸(181.81mm)、厚み3分(9.09mm)だったのではと推察できます。

次は、左より順に京都の木製、今回の東京の木製、そしてそのレプリカ(製作中)です。京都のものよりは縦が短いことが分かります。商標の位置は、京都、大津、舞鶴ではすべて上にありましたが、東京は複数の古写真でいずれも下にあります。

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レプリカですが、白地に赤の枠と随分と派手に見えるでしょうが、京都の木製も元々はこの配色であり、東京の場合も同様の配色であったであろうと現時点では考えています。ちなみに、先の東京都の関連公文書の中に「町名札製作仕様書」というのがあり、『白ペンキ三遍塗ニシテ(略)黒色ペンキニテ町名ヲ楷書体ニテ記入スル事』とあります。

興奮しながら、ひととおりの見分を終えると、これからどうするのかという議論になりました。当然のことながら約束どおりにお返しすることが大前提ですが、しかし現状復帰すると劣化がますます進むことは明白です。そして、盗難の危険も気になります。この機会に保存する方向で具体的に話を進められないものかと熱く議論しました。保存するにしても個人が持つわけには行かず、やはり地元の公的な施設または森下仁丹株式会社であろうとなり、お返しにあがった時にはある程度具体的に提案できるようにしたいなとなりました。

東京の木製仁丹 保存へ


さて、1カ月後の6月5日、約束どおりに返却にうかがいました。その時はレプリカも持参し、そもそもはこのようなものであったことを説明、そしてとても貴重なものなのでぜひとも保存させていただきたいとお願いしたところ、ご理解いただき、快諾していただきました。本当に感謝です。そして、現物は再び京都入り、代わりに現地にはレプリカを設置させていただきました。家の方のお話しでは、以前はその周囲に結構あったのだそうです。

そして、保存先ですが、地元の施設にも当たってみましたが、結果としては森下仁丹株式会社が受け入れてくださることになりました。現物だけでは何なのか分かりにくいので、レプリカをもう1枚作成し、セットで寄贈させていただく段取りで進めております。同社には他にも様々な資料が全国から寄せられており、イベントなど機会あるたびに展示もされていますので、今回の東京の木製仁丹も公開されることもあるだろうと期待しております。

以上のような経緯でした。関心を持っておられた東京の方々にはご心配をおかけしました。町名表示板は本来の場所にあってこその価値だと常日頃言っている私たちですが、今回は非常に貴重な1枚であり、なおかつこのまま劣化の一途を辿るので、保存するべきと判断した次第です。ご理解いただきますようお願いします。

それにしても9万分の1の奇跡が起こりました。関東大震災、空襲、高度経済成長と激動の東京を目の当たりにしてきた“大礼服姿のカイゼル髭のおじさん”は最新鋭の新幹線に3度も乗って、東京~京都間を行き来しました。その光景を想像するだけでも不思議な出来事でした。

~京都仁丹樂會~



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Posted by 京都仁丹樂會 at 17:49│Comments(6)トピックニュース現況報告
この記事へのコメント
今度探してみようと思います。
久しぶりに仁丹食べたくなりました!
しげ
Posted by guildguild at 2022年06月12日 20:11
仁丹、薬局にちゃんと売っていますよ。
Posted by shimo-chan at 2022年06月12日 20:55
歴史を感じます。
すごく価値?のあるものなのでしょうね・・・
         ギルド洛南店 宮脇
Posted by メガネのギルド洛南店 at 2022年06月12日 22:07
情報ありがとうございます。
早速ゲットしてきました。
懐かしい香りがして、効きそうです!
しげ
Posted by guildguild at 2022年06月13日 21:05
千駄木在住の我が家のごく近くにこんなに価値のある看板があったとは驚きです。
早速見に行って写真を撮ってきました。この武田表装店前はほぼ毎日のように散歩で通っていたのですが全く気づきませんでした。。
根津神社門前は明治になって東京大学が本郷に出来るまで遊郭があったところで、大正3〜8年頃には川端康成が根津須賀町13牧瀬方に下宿、今東光が大正12〜14年頃、藤澤清造が大正11年頃、根津須賀町27の松翠閣に下宿、昭和22年頃には丸谷才一が根津須賀町7藤田方に下宿していました。この看板をそれらの文人達が見たかどうかは知る由もありませんが。
7,8年前京都に1年半住んだことがあり、ひょんなことから仁丹看板にはまってしまいました。毎日のように自転車で市内を走り回って探しましたが、668枚までしか探すことが出来なく悔しい思いをしたことを思い出します。
Posted by 大塚 at 2022年06月14日 16:32
大塚さん、詳しい情報ありがとうございます。
当時の地籍図を見ますと、川端康成が居住されていたという13番地は、今回の4番地のまさに通りを挟んだ向かい側になっています。
今回の木製仁丹はどうか分かりませんが、周辺には結構あったということですから、往年の偉人もきっと見ていたことでしょう。ただし、当時は全く気にも留めなかったでしょうが。

ところで、7,8年前の668枚となるとほぼ完ぺきです。頭が下がります。
Posted by shimo-chan at 2022年06月15日 19:40
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