2012年08月13日
戦争と仁丹町名表示板
間もなく終戦記念日です。
戦争と仁丹町名表示板。実は2年前、「京都ずんずん」で取り上げられた話題なのですが、当ブログでも避けて通れないテーマですので、改めて紹介させていただきます。
きっかけは、この1冊の本からでした。
この本は、京都は大規模な空襲に遭っていないから非戦災都市だとよく言われるが、とんでもない、京都だって人的にも物的にも十分大きな戦災を被った戦災都市なのだということを、筆者の体験や取材に基づき様々に教えてくれます。
ジュニア新書、しかも帯には”修学旅行で京都に来たら、現代史もぜひ学んでね”とありますが、これまたとんでもない、私たち京都市民こそが老いも若きも読むべき本なのでした。空襲を受けた西陣や東山の馬町、そして広い堀川・御池・五条通り、二条城前広場などなど、今現在、私たちの目の前で展開している光景の中に、いかに多くの先人の悲痛な思いが詰まっているのか、そこに住む京都市民こそがしっかりと知っておくべきなのです。京都で生まれ育ったおじさんも知らなかったことだらけの内容でした。
さて、本の内容に触れだすとキリがありませんのでこれぐらいにして、仁丹の話です。実は、この本に仁丹のことは一切登場しません。「仁丹」の”じ”の字もありません。しかし、仁丹と大いに関わりがあったのです。
それは『金属類回収令』です。
戦時中、資源の入手が困難となった日本は、昭和16年8月29日にこの金属類回収令なる法律を公布し、民間から様々な金属を回収、リサイクルして武器を作ろうとしました。回収&リサイクルと言うと聞こえは良いのですが、現実は供出という強制的なものでした。次の資料がその金属類回収令の原文す。第18条まであるのですが、ここでは第2条までをご紹介します。
まず第1条でこの法律が国家総動員法に拠ることが記され、第2条で回収する鉄製品や銅製品を具体的に閣令で別途指示するとあります。
そして、3日後の9月1日付けで発せられた別途支持なる閣令が、次の「回収物件及施設指定規則」でした。第1条1項には「鉄製品」について列挙されています。
そして、第2項には銅製品のことが次のように続きます。
「戦争のなかの京都」では、これらの抜粋が記されていましたが、原文を見るとここまでするかと思えるような細かい内容に驚かされます。そして追い詰められた当時の日本の姿もありありと浮かび上がってくるのでした。
また、同書では、中学生が建物疎開で解体された家屋から、ノルマを課せられて釘を回収し、学校へ持って行くというエピソードも紹介されています。金属回収の想像以上の凄まじい実態を知ることになりました。
さて、ここで、疑問です。
こんなに切迫しているのに、鉄製品である仁丹町名表示板がなぜ回収されずに生き延びられたのでしょうか?もしかしたら、今あるのは戦後生まれと考えるべきだろうかとさえ一時は思いました。
しかし、その理由は次の但し書きにあったのではないでしょうか?
鉄製品について定めた第1条第1項の次の部分です。
鉄であっても琺瑯引きを除く、とあります。国の法令に明記されたということは”全国区”のことですから、京都の仁丹を守るためにというレベルのものではありません。これだけ細かい指示を与えておきながら、琺瑯製品は除外するというのは、リサイクルをするうえで、技術的な不都合があったのかもしれません。
と言うことで、理由はともかく、この”琺瑯引キノモノヲ除ク”という10文字のお蔭で、仁丹町名表示板は生き延びることができたのではないでしょうか。そして、激流に飲み込まれていく京都の人たちを、京都の街を、ずっと見つめ続ける結果となったのでしょう。
戦争と仁丹町名表示板。実は2年前、「京都ずんずん」で取り上げられた話題なのですが、当ブログでも避けて通れないテーマですので、改めて紹介させていただきます。
きっかけは、この1冊の本からでした。
2009年12月18日発行 岩波ジュニア新書644 「戦争のなかの京都」 著者:中西宏次
この本は、京都は大規模な空襲に遭っていないから非戦災都市だとよく言われるが、とんでもない、京都だって人的にも物的にも十分大きな戦災を被った戦災都市なのだということを、筆者の体験や取材に基づき様々に教えてくれます。
ジュニア新書、しかも帯には”修学旅行で京都に来たら、現代史もぜひ学んでね”とありますが、これまたとんでもない、私たち京都市民こそが老いも若きも読むべき本なのでした。空襲を受けた西陣や東山の馬町、そして広い堀川・御池・五条通り、二条城前広場などなど、今現在、私たちの目の前で展開している光景の中に、いかに多くの先人の悲痛な思いが詰まっているのか、そこに住む京都市民こそがしっかりと知っておくべきなのです。京都で生まれ育ったおじさんも知らなかったことだらけの内容でした。
さて、本の内容に触れだすとキリがありませんのでこれぐらいにして、仁丹の話です。実は、この本に仁丹のことは一切登場しません。「仁丹」の”じ”の字もありません。しかし、仁丹と大いに関わりがあったのです。
それは『金属類回収令』です。
戦時中、資源の入手が困難となった日本は、昭和16年8月29日にこの金属類回収令なる法律を公布し、民間から様々な金属を回収、リサイクルして武器を作ろうとしました。回収&リサイクルと言うと聞こえは良いのですが、現実は供出という強制的なものでした。次の資料がその金属類回収令の原文す。第18条まであるのですが、ここでは第2条までをご紹介します。
~昭和16年8月30日 官報より~
まず第1条でこの法律が国家総動員法に拠ることが記され、第2条で回収する鉄製品や銅製品を具体的に閣令で別途指示するとあります。
そして、3日後の9月1日付けで発せられた別途支持なる閣令が、次の「回収物件及施設指定規則」でした。第1条1項には「鉄製品」について列挙されています。
~昭和16年9月1日 官報より~
そして、第2項には銅製品のことが次のように続きます。
「戦争のなかの京都」では、これらの抜粋が記されていましたが、原文を見るとここまでするかと思えるような細かい内容に驚かされます。そして追い詰められた当時の日本の姿もありありと浮かび上がってくるのでした。
また、同書では、中学生が建物疎開で解体された家屋から、ノルマを課せられて釘を回収し、学校へ持って行くというエピソードも紹介されています。金属回収の想像以上の凄まじい実態を知ることになりました。
さて、ここで、疑問です。
こんなに切迫しているのに、鉄製品である仁丹町名表示板がなぜ回収されずに生き延びられたのでしょうか?もしかしたら、今あるのは戦後生まれと考えるべきだろうかとさえ一時は思いました。
しかし、その理由は次の但し書きにあったのではないでしょうか?
鉄製品について定めた第1条第1項の次の部分です。
鉄であっても琺瑯引きを除く、とあります。国の法令に明記されたということは”全国区”のことですから、京都の仁丹を守るためにというレベルのものではありません。これだけ細かい指示を与えておきながら、琺瑯製品は除外するというのは、リサイクルをするうえで、技術的な不都合があったのかもしれません。
と言うことで、理由はともかく、この”琺瑯引キノモノヲ除ク”という10文字のお蔭で、仁丹町名表示板は生き延びることができたのではないでしょうか。そして、激流に飲み込まれていく京都の人たちを、京都の街を、ずっと見つめ続ける結果となったのでしょう。
Posted by 京都仁丹樂會 at 00:04│Comments(0)
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