2014年12月13日
日本交通学会エクスカーション
本格的な冬の到来となりましたが、今回は2か月前の雲一つない秋晴れの一日のことです。

10月18日、19日の両日、同志社大学において日本交通学会の第73回研究報告会が開かれました。大会のテーマは「都市観光と交通」で、交通や観光に携われている産官学の専門家の方々による熱い議論が行われました。(青い文字をクリックすると当該サイトにリンクします)
その初日、関係者の方々に実際にまち歩きを体験していただく「エクスカーション(見学会)」が企画され、京都仁丹樂會にそのガイドの依頼がありました。そして、会場の同志社大学界隈の仁丹町名表示板を巡りつつ、近辺の歴史やまちなみなどを紹介させていただきました。
以下、その模様です。
集合場所は同志社大の今出川キャンパス。天候にも恵まれ、気持ちの良いスタートです。
まずは烏丸今出川の交差点で、京都独特の住所表記、烏丸今出川近辺のまちづくりの変遷などを説明しました。

現在、烏丸今出川の交差点を南側から眺めると、次のような写真になりますね。

でも、同じ地点でも大正初めですと次のモノクロ画像のようになります。

『石井行昌撮影写真資料147 市電』 原資料:京都府立総合資料館寄託
これは「仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑦木製のピーク」で紹介した写真です。
市電の敷設状況から大正2年5月26日~大正6年10月31日の間に撮影された写真と断定できますが、電車の奥、烏丸通はまだ北への拡築がされておらず、また、赤い矢印の部分には木製の仁丹町名表示板が付けられていることも分かります。

この交差点から今出川通を西方向へと歩いていきます。
建築中の上京区役所を過ぎると、今出川通は衣棚通と小川通の中間辺りで、なぜか北側へと斜行し、しばらくして再び東西に延びる直線的な道路になります。

国際日本文化研究センター所蔵の「実地踏測京都市街全図」(明治44年)と京都市街全図(大正2年)を比較すると、その変遷が垣間見えます。
【明治末】


【大正初期】

明治末の地図では「今出川通」の表示がされている部分(赤丸で囲ったところ)、ちょうど烏丸通から西側、小川通の手前あたりまで鍵型に歪んでいたものが、大正に入ると現在の形で拡幅されています。そして、拡幅後も元々の細い今出川通はそのまま残されていますが、新しい道路に今出川通の名を譲り、自らは”旧今出川通”と名乗るようになりました。
上の2枚の地図で示した星印の場所には次の仁丹町名表示板が健在で、「舊今出川通」を冠してその歴史を伝えていました。

現在の今出川通と元祖今出川通の関係を示す分かりやすい看板が地元にありました。

そして、旧今出川通に入って東方面を眺めるとこんな ↓ 光景となります。

「舊今出川通」の町名表示板のあるこの辺り、非常に細い通りが入り組んでいます。
上京区役所のホームページによれば、一条以北、智恵光院以東、烏丸以西に辻子の集中地域があり、京都市内約100例のうち実に50例がここに集中しているとのこと。そのいくつかを通りながらまち歩きは進みます。

次の元図子町の表示板も、その典型例の一つです。

この辺りは狩野元信が居を構えていたといわれており、「狩野辻子」とも呼ばれていました。先の上京区役所HPの地図における44番です。

さて、堀川通に出ました。堀川今出川の交差点近くには村雲町の町名表示板があります。

このあたり、今はもう失われてしまった町名表示板がたくさん存在していたはずなのです。
というのも、現在は中央分離帯の幅も広い4-6車線の幹線道路である堀川通は、戦時中の建物疎開により拡幅されたものであり、それまではそこに「西堀川通」と住宅群が存在していたからです。
京都府立総合資料館所蔵「京都市明細図」ではその様子が克明に記録されています。

地図中央、着色されていない部分は「疎開地」であり、戦後そこが拡幅された現在の堀川通に変わっているのです。東堀川通の村雲町の町名表示板が生き残ったのとは対照的に、西堀川通とその沿道には、いったいいくつの表示板が取り付けられていたのでしょうか。
次に堀川通から西入上るで、慈眼庵辻子を通って貴重な木製の町名表示板を紹介します。

さらに北上していくと今度は「山名辻子」。応仁の乱の西軍トップ、山名宗全邸跡の碑が残されています。

西軍の陣が構えられたからこその「西陣」の地名、今でも京都市考古資料館前にはその石碑が残されていますね。

山名辻子に一行をお連れしたのにはもう一つ理由がありました。
平成23年、この山名辻子に残されていた「山名町」の町名表示板が、心無い何者かによって盗まれてしまったのです。

今ではうっすらと町名表示板の跡が残るだけで、参加者の中からも「ここに残っていたらとても絵になる、いい雰囲気やのに…」と声が上がっていました。
町名表示板は京都の文化財。90年近くを経過しても今なお現役、まちの歴史を伝え続けているとともに地域の方々にも大切にされています。設置された場所に存在してこそ価値があると言うものです。
京都仁丹樂會では常々、まち歩きのイベントや啓発チラシの配布、ブログ等での情報発信などを通じて、そのことを訴えてきました。今後もその取り組みを継続していく考えですし、その大切さに共感してくださる方が一人でも増えることを切に希望しています。
まち歩きに戻りましょう。
堀川通を再び横断し、東へと向かい、そして小川通を北上します。
今は埋め立てられてしまった「小川」の痕跡を紹介しながら、寺之内通へ。

応仁の乱の史跡として有名な「百々橋」跡、千家の不審庵、今日庵などをご紹介しつつ、さらに東へ向かいます。
新町通を少し北上すると、道正町の表示板が見えてきます。

実はこの表示板、以前は新町通の西側の町家に設置されていたものでした。
町家の解体に伴いいったんは姿を消したかに思われたのですが、つい先日、通りを挟んで東側のお宅に無事設置されていたことが確認できました。
町家の解体に伴い近隣に再設置されるもの、いったんは姿を消しても工事終了後に改めて取り付けられるものなど、まちの皆様から愛され、大切にされている町名表示板を見るのは、私たちにとっても非常にうれしいことです。
その後も、近隣の木製仁丹、琺瑯仁丹を案内しながら、上御霊神社、相国寺を経て同志社大学に帰着。無事エクスカーションを終えることができました。
「まいまい京都」のガイドは当会として都合6回させていただきましたが、今回は雰囲気がまいまいとはかなり違っていました。先ずは、ほとんどの方がスーツ姿であること。そして、京都以外にお住まいの学術研究者、交通業界の専門家の方々で、ディープな路地散策や住所表示の仕組みなど、みなさんにとってはとても新鮮で非常に興味深く楽しんでいただいたようです。
「勉強になった」
「楽しかった」
「面白い企画だ。京都だからできるのかもしれないね」
「京都は何度か来ているが、こんな細い通りを歩くのは初めてだ」
などの会話が耳に入ってきていました。
町名表示板を探しながらブラブラきょろきょろとまち歩きをしつつ、その歴史や近代京都の都市改造、時代の生き証人・文化財としての仁丹町名表示板の大切さに思いを馳せる、というのもなかなか素敵な時間ではないでしょうか。
皆さんもぜひ京都にお越しの際にはトライしてみて頂きたいと思います。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

10月18日、19日の両日、同志社大学において日本交通学会の第73回研究報告会が開かれました。大会のテーマは「都市観光と交通」で、交通や観光に携われている産官学の専門家の方々による熱い議論が行われました。(青い文字をクリックすると当該サイトにリンクします)
その初日、関係者の方々に実際にまち歩きを体験していただく「エクスカーション(見学会)」が企画され、京都仁丹樂會にそのガイドの依頼がありました。そして、会場の同志社大学界隈の仁丹町名表示板を巡りつつ、近辺の歴史やまちなみなどを紹介させていただきました。
以下、その模様です。
※ ※ ※
集合場所は同志社大の今出川キャンパス。天候にも恵まれ、気持ちの良いスタートです。
まずは烏丸今出川の交差点で、京都独特の住所表記、烏丸今出川近辺のまちづくりの変遷などを説明しました。

現在、烏丸今出川の交差点を南側から眺めると、次のような写真になりますね。

でも、同じ地点でも大正初めですと次のモノクロ画像のようになります。

『石井行昌撮影写真資料147 市電』 原資料:京都府立総合資料館寄託
これは「仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑦木製のピーク」で紹介した写真です。
市電の敷設状況から大正2年5月26日~大正6年10月31日の間に撮影された写真と断定できますが、電車の奥、烏丸通はまだ北への拡築がされておらず、また、赤い矢印の部分には木製の仁丹町名表示板が付けられていることも分かります。

※ ※ ※
この交差点から今出川通を西方向へと歩いていきます。
建築中の上京区役所を過ぎると、今出川通は衣棚通と小川通の中間辺りで、なぜか北側へと斜行し、しばらくして再び東西に延びる直線的な道路になります。

国際日本文化研究センター所蔵の「実地踏測京都市街全図」(明治44年)と京都市街全図(大正2年)を比較すると、その変遷が垣間見えます。
【明治末】

「実地踏測京都市街全図」(明治44年) 国際日本文化研究センター所蔵をベースに加筆
(地図をクリックすると当該データにリンクします)

【大正初期】

「京都市街全図」(大正2年) 国際日本文化研究センター所蔵をベースに加筆
(地図をクリックすると当該データにリンクします)
明治末の地図では「今出川通」の表示がされている部分(赤丸で囲ったところ)、ちょうど烏丸通から西側、小川通の手前あたりまで鍵型に歪んでいたものが、大正に入ると現在の形で拡幅されています。そして、拡幅後も元々の細い今出川通はそのまま残されていますが、新しい道路に今出川通の名を譲り、自らは”旧今出川通”と名乗るようになりました。
上の2枚の地図で示した星印の場所には次の仁丹町名表示板が健在で、「舊今出川通」を冠してその歴史を伝えていました。

現在の今出川通と元祖今出川通の関係を示す分かりやすい看板が地元にありました。

そして、旧今出川通に入って東方面を眺めるとこんな ↓ 光景となります。

※ ※ ※
「舊今出川通」の町名表示板のあるこの辺り、非常に細い通りが入り組んでいます。
上京区役所のホームページによれば、一条以北、智恵光院以東、烏丸以西に辻子の集中地域があり、京都市内約100例のうち実に50例がここに集中しているとのこと。そのいくつかを通りながらまち歩きは進みます。

上京区役所ホームページ 「上京区域における図子の分布」より
(地図をクリックすると当該データにリンクします)
次の元図子町の表示板も、その典型例の一つです。

この辺りは狩野元信が居を構えていたといわれており、「狩野辻子」とも呼ばれていました。先の上京区役所HPの地図における44番です。

※ ※ ※
さて、堀川通に出ました。堀川今出川の交差点近くには村雲町の町名表示板があります。

このあたり、今はもう失われてしまった町名表示板がたくさん存在していたはずなのです。
というのも、現在は中央分離帯の幅も広い4-6車線の幹線道路である堀川通は、戦時中の建物疎開により拡幅されたものであり、それまではそこに「西堀川通」と住宅群が存在していたからです。
京都府立総合資料館所蔵「京都市明細図」ではその様子が克明に記録されています。

京都府立総合資料館所蔵「京都市明細図」をベースに加筆
上半分 = 京都市明細図NW15 下半分 = 京都市明細図NW14
(青い文字をクリックすると、当該データにリンクします)
地図中央、着色されていない部分は「疎開地」であり、戦後そこが拡幅された現在の堀川通に変わっているのです。東堀川通の村雲町の町名表示板が生き残ったのとは対照的に、西堀川通とその沿道には、いったいいくつの表示板が取り付けられていたのでしょうか。
※ ※ ※
次に堀川通から西入上るで、慈眼庵辻子を通って貴重な木製の町名表示板を紹介します。

さらに北上していくと今度は「山名辻子」。応仁の乱の西軍トップ、山名宗全邸跡の碑が残されています。

西軍の陣が構えられたからこその「西陣」の地名、今でも京都市考古資料館前にはその石碑が残されていますね。

山名辻子に一行をお連れしたのにはもう一つ理由がありました。
平成23年、この山名辻子に残されていた「山名町」の町名表示板が、心無い何者かによって盗まれてしまったのです。

今ではうっすらと町名表示板の跡が残るだけで、参加者の中からも「ここに残っていたらとても絵になる、いい雰囲気やのに…」と声が上がっていました。
町名表示板は京都の文化財。90年近くを経過しても今なお現役、まちの歴史を伝え続けているとともに地域の方々にも大切にされています。設置された場所に存在してこそ価値があると言うものです。
京都仁丹樂會では常々、まち歩きのイベントや啓発チラシの配布、ブログ等での情報発信などを通じて、そのことを訴えてきました。今後もその取り組みを継続していく考えですし、その大切さに共感してくださる方が一人でも増えることを切に希望しています。
※ ※ ※
まち歩きに戻りましょう。
堀川通を再び横断し、東へと向かい、そして小川通を北上します。
今は埋め立てられてしまった「小川」の痕跡を紹介しながら、寺之内通へ。

応仁の乱の史跡として有名な「百々橋」跡、千家の不審庵、今日庵などをご紹介しつつ、さらに東へ向かいます。
新町通を少し北上すると、道正町の表示板が見えてきます。

実はこの表示板、以前は新町通の西側の町家に設置されていたものでした。
町家の解体に伴いいったんは姿を消したかに思われたのですが、つい先日、通りを挟んで東側のお宅に無事設置されていたことが確認できました。
町家の解体に伴い近隣に再設置されるもの、いったんは姿を消しても工事終了後に改めて取り付けられるものなど、まちの皆様から愛され、大切にされている町名表示板を見るのは、私たちにとっても非常にうれしいことです。
その後も、近隣の木製仁丹、琺瑯仁丹を案内しながら、上御霊神社、相国寺を経て同志社大学に帰着。無事エクスカーションを終えることができました。
※ ※ ※
「まいまい京都」のガイドは当会として都合6回させていただきましたが、今回は雰囲気がまいまいとはかなり違っていました。先ずは、ほとんどの方がスーツ姿であること。そして、京都以外にお住まいの学術研究者、交通業界の専門家の方々で、ディープな路地散策や住所表示の仕組みなど、みなさんにとってはとても新鮮で非常に興味深く楽しんでいただいたようです。
「勉強になった」
「楽しかった」
「面白い企画だ。京都だからできるのかもしれないね」
「京都は何度か来ているが、こんな細い通りを歩くのは初めてだ」
などの会話が耳に入ってきていました。
町名表示板を探しながらブラブラきょろきょろとまち歩きをしつつ、その歴史や近代京都の都市改造、時代の生き証人・文化財としての仁丹町名表示板の大切さに思いを馳せる、というのもなかなか素敵な時間ではないでしょうか。
皆さんもぜひ京都にお越しの際にはトライしてみて頂きたいと思います。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
~京都仁丹樂會 idecchi~
Posted by 京都仁丹樂會 at 22:22│Comments(3)
│トピックニュース
この記事へのコメント
仁丹看板の「舊今出川通」の看板のナゾがようやく解けました。
やはり古地図を手に、フィールドワークのまえに地図で確認をしてから出かけないと、
現地のその場だけでは、いきなりはわからないですよね。
上京区役所付近は辻子が多く、仁丹看板も多彩で、
街歩きをしていて飽きることがありません。
もっと、ガイドさんの説明を頂いて、
詳しく詳細な街の変遷を知ることができればと思います。
想像すると、手元に地図を配られて、
現地で手渡された地図を手にして、その場のフィールドワークの場で、
すぐに理解することが、僕にできるのか不安で、
なかなか「まいまい京都」から、応募することをためらってしまいます。
ぜひとも、仁丹看板による街の変遷を、
フィールドワークで知ることができればと常々願っています。
やはり古地図を手に、フィールドワークのまえに地図で確認をしてから出かけないと、
現地のその場だけでは、いきなりはわからないですよね。
上京区役所付近は辻子が多く、仁丹看板も多彩で、
街歩きをしていて飽きることがありません。
もっと、ガイドさんの説明を頂いて、
詳しく詳細な街の変遷を知ることができればと思います。
想像すると、手元に地図を配られて、
現地で手渡された地図を手にして、その場のフィールドワークの場で、
すぐに理解することが、僕にできるのか不安で、
なかなか「まいまい京都」から、応募することをためらってしまいます。
ぜひとも、仁丹看板による街の変遷を、
フィールドワークで知ることができればと常々願っています。
Posted by 夏也 at 2014年12月14日 23:01
夏也さん、いらっしゃいませ。
>現地で手渡された地図を手にして、その場のフィールドワークの場で、すぐに理解することが・・・
確かに、そのお気持ち分かります。
以前から疑問に思っていたことならば、その場でなるほどと納得できるでしょうが、そうでない時に突然に謎と答えを与えられても、ちょっと付いていけないかもしれませんね。
次は「舊今出川通」の歴史も調べてみたいですね。
>現地で手渡された地図を手にして、その場のフィールドワークの場で、すぐに理解することが・・・
確かに、そのお気持ち分かります。
以前から疑問に思っていたことならば、その場でなるほどと納得できるでしょうが、そうでない時に突然に謎と答えを与えられても、ちょっと付いていけないかもしれませんね。
次は「舊今出川通」の歴史も調べてみたいですね。
Posted by shimo-chan at 2014年12月18日 21:32
今朝「立花氏」から電話受けました。
旧今出川通り」今出川通りとの分岐,点の写真で
右側の京屋の家は私が小学校時代「書道」に
通って居た「お米屋さん=大島宅デ、懐かしく拝見。
出来れば当日 歩まれたコースを地図上に記載が
希望ですし、又来年「まいまい京都」で御案内下さい。
旧今出川通り」今出川通りとの分岐,点の写真で
右側の京屋の家は私が小学校時代「書道」に
通って居た「お米屋さん=大島宅デ、懐かしく拝見。
出来れば当日 歩まれたコースを地図上に記載が
希望ですし、又来年「まいまい京都」で御案内下さい。
Posted by skykappa at 2014年12月19日 09:54