2013年02月23日
東山線通の謎 2/3 ~仁丹町名表示板に見る近代史~
市電東山線の開通
東大路通に市電が走っていた、昭和53年当時の写真です。
場所は仁王門を少し上がったところ、ちょうど前回の記事のB地点の前でした。
あの時、見上げれば貴重な仁丹があったはずなのに、当時は全く興味がなく、惜しいことをしました。
さて、この区間に市電東山線が開通したのは大正2年3月15日のことでした。
明治の末から始まった三大事業のうちのひとつである、道路の拡築と軌道の敷設をセットに行う事業によるものでした。
既存の道路を広くすることもあれば、新たに道を開くこともありました。
そして、現在の京都のまちの骨格が築かれました。
では、この付近は市電が開通する前はどのような状況だったのでしょうか。
国際日本文化研究センター(日文研)の地図データベースにある、明治44年の『最新踏査京都新地圖』に次のような非常に分かりやすいものがありました。一部をアップして貼り付けますが、地図をクリックすると当該地図にリンクします。
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現在の東大路通に該当するような南北に1本貫かれた通りはまだ存在せず、南北のアクセスが不便だったことでしょう。
東山線の開通には大幅な工事を伴ったことがこの地図から容易に分かります。
なお、”東山線”なる表現は明治40年の計画段階から使われており、また、地図中で赤い線で示されている軌道は蹴上のインクラインから発している京都電気鉄道です。
一方、文書による記録としては昭和8年京都市電気局発行の「京都市営電気事業沿革誌」がありました。
なるほど、工事の様子がよく分かります。
”上京区吉田町高等工藝学校前ヨリ起リ”とは百万遍を示し、”丸太町よりも北は現在路線を”とあるのは田中通というのが先の日文研の地図で確認できます。
”丸太町から疏水までは新たに道路を開拓する”は、つまりは立ち退きを伴っての道路建設となります。確かに熊野神社境内の東南角から疏水までの間は南北の通りがありません。
そして、”疏水から孫橋通までは東寺町筋を経て”とあり、まさに今回話題としている区間のことです。日文研の地図によれば東寺町と西寺町なる通りがあり、東寺町通を拡幅したということになります。満足稲荷神社の位置からして、西側が立ち退いたのではないでしょうか。また、西寺町通は今も存在しますが、東寺町通は東大路に飲み込まれてしまい、その名を残していません。
なお、疏水にはすでに橋が架かっているように見えますが、これは熊野道の熊野橋であり、現在の東大路に架かる徳成橋のひとつ西側に該当します。
東寺町通は孫橋通で突き当り、それより南へは、新道を開いて進みました。ここでも大幅な立ち退きを伴ったはずです。
”小堀に至る”とは祇園石段下から北へ白川までの間に延びていた「こっぽり通り」のことで、明治45年に二間から九間、すなわち3.5m程度から16m程度へと拡幅され、東山通のルートに飲み込まれました。
”八坂神社前を南に広道を経て七条通に達する”は、祇園石段下から南側へと通じる安井道が同じく明治45年に拡幅されて「広道」なる道路に変わっており、それを利用して七条通まで行くということです。
これらの様子を端的に表しているのが、同じく日文研地図データベースにある次の大正2年発行『最新踏査京都新地図』です。
先の地図と同じタイトルですが、版元も発行年も別のものです。
余裕がなかったのでしょうか、新設された道路を描くことなく、上から軌道を書いています。手抜きではありますが、かえって道路の拡幅部分と新設部分とがよく分かります。東寺町通の位置が一部ずれているのではないかと思える部分もありますが。
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このようにして、満足稲荷神社の前に市電が開通したのは大正2年3月15日のことでした。
翌日の京都日出新聞には次のように報じられています。
”大正2年3月15日、午後零時30分より東山線のうちの三条大橋東四丁目から冷泉通疏水徳成橋間を開通させた。しかし、疏水を渡る徳成橋はまだ未完成であり、4月中旬に落成するであろう”とあります。
わずか南北700mの開業であり、その南側は3か月前の大正元年12月25日に、北側は熊野神社まで2か月後の大正2年5月6日に開通しましたが、起点の百万遍に達するのは昭和に入ってからであり、大正時代の東山線は北は熊野神社から南は東山七条までの区間しか開業できませんでした。
また、東山三条とは言わず「三条大橋東四丁目」なる表現に違和感を覚えるとともに注目です。
次の地図も日文献の地図データベースにある大正2年発行『大正最近実測京都市新地図』からです。
電停の名称が東山三条ではなくて「三条大橋東四丁目」となっています。
南北のアクセスが不十分で、東西のアクセスもほとんど三条通だけと言えるような時代では、このような表現が従前のスタイルだったのでしょう。
▼リンクしています
以上のように、稲荷満足神社を界隈とするエリアに、1本南北に貫かれた電車も走る幹線道路が誕生したわけです。センセーショナルな出来事だったに違いないでしょう。
~つづく~
東大路通に市電が走っていた、昭和53年当時の写真です。
場所は仁王門を少し上がったところ、ちょうど前回の記事のB地点の前でした。
あの時、見上げれば貴重な仁丹があったはずなのに、当時は全く興味がなく、惜しいことをしました。
さて、この区間に市電東山線が開通したのは大正2年3月15日のことでした。
明治の末から始まった三大事業のうちのひとつである、道路の拡築と軌道の敷設をセットに行う事業によるものでした。
既存の道路を広くすることもあれば、新たに道を開くこともありました。
そして、現在の京都のまちの骨格が築かれました。
では、この付近は市電が開通する前はどのような状況だったのでしょうか。
国際日本文化研究センター(日文研)の地図データベースにある、明治44年の『最新踏査京都新地圖』に次のような非常に分かりやすいものがありました。一部をアップして貼り付けますが、地図をクリックすると当該地図にリンクします。
▼リンクしています
~日文研 地図データベース 明治44年『最新踏査京都新地圖』より~
現在の東大路通に該当するような南北に1本貫かれた通りはまだ存在せず、南北のアクセスが不便だったことでしょう。
東山線の開通には大幅な工事を伴ったことがこの地図から容易に分かります。
なお、”東山線”なる表現は明治40年の計画段階から使われており、また、地図中で赤い線で示されている軌道は蹴上のインクラインから発している京都電気鉄道です。
※ ※ ※
一方、文書による記録としては昭和8年京都市電気局発行の「京都市営電気事業沿革誌」がありました。
『東山線延長二千百九十二間 幅八間
上京区吉田町高等工藝学校前ヨリ起リ丸太町ニ至ル迄ハ医科大学ト第三高等学校トノ間ニアル現在同路線ヲトリ、丸太町ヨリ疏水夷川運河ニ至ル迄ハ新ニ道路ヲ開拓シ、ソレヨリ孫橋通迄ハ東寺町筋ヲ経テソレヨリ新道ヲ開拓シテ小堀ニ出デ八坂神社前ヲ南ニ広道ヲ経テ七条通ニ達スルモノトス。』
~「京都市営電気事業沿革誌」より 旧漢字は変換~
なるほど、工事の様子がよく分かります。
”上京区吉田町高等工藝学校前ヨリ起リ”とは百万遍を示し、”丸太町よりも北は現在路線を”とあるのは田中通というのが先の日文研の地図で確認できます。
”丸太町から疏水までは新たに道路を開拓する”は、つまりは立ち退きを伴っての道路建設となります。確かに熊野神社境内の東南角から疏水までの間は南北の通りがありません。
そして、”疏水から孫橋通までは東寺町筋を経て”とあり、まさに今回話題としている区間のことです。日文研の地図によれば東寺町と西寺町なる通りがあり、東寺町通を拡幅したということになります。満足稲荷神社の位置からして、西側が立ち退いたのではないでしょうか。また、西寺町通は今も存在しますが、東寺町通は東大路に飲み込まれてしまい、その名を残していません。
なお、疏水にはすでに橋が架かっているように見えますが、これは熊野道の熊野橋であり、現在の東大路に架かる徳成橋のひとつ西側に該当します。
東寺町通は孫橋通で突き当り、それより南へは、新道を開いて進みました。ここでも大幅な立ち退きを伴ったはずです。
”小堀に至る”とは祇園石段下から北へ白川までの間に延びていた「こっぽり通り」のことで、明治45年に二間から九間、すなわち3.5m程度から16m程度へと拡幅され、東山通のルートに飲み込まれました。
”八坂神社前を南に広道を経て七条通に達する”は、祇園石段下から南側へと通じる安井道が同じく明治45年に拡幅されて「広道」なる道路に変わっており、それを利用して七条通まで行くということです。
これらの様子を端的に表しているのが、同じく日文研地図データベースにある次の大正2年発行『最新踏査京都新地図』です。
先の地図と同じタイトルですが、版元も発行年も別のものです。
余裕がなかったのでしょうか、新設された道路を描くことなく、上から軌道を書いています。手抜きではありますが、かえって道路の拡幅部分と新設部分とがよく分かります。東寺町通の位置が一部ずれているのではないかと思える部分もありますが。
▼リンクしています
~日文研地図データベース 大正2年発行「最新踏査京都新地図」より~
このようにして、満足稲荷神社の前に市電が開通したのは大正2年3月15日のことでした。
~満足稲荷神社より東大路を望む 昭和52年~
※ ※ ※
翌日の京都日出新聞には次のように報じられています。
~京都日出新聞 大正2年3月16日より~
”大正2年3月15日、午後零時30分より東山線のうちの三条大橋東四丁目から冷泉通疏水徳成橋間を開通させた。しかし、疏水を渡る徳成橋はまだ未完成であり、4月中旬に落成するであろう”とあります。
~徳成橋を渡る市電東山線 昭和52年~
わずか南北700mの開業であり、その南側は3か月前の大正元年12月25日に、北側は熊野神社まで2か月後の大正2年5月6日に開通しましたが、起点の百万遍に達するのは昭和に入ってからであり、大正時代の東山線は北は熊野神社から南は東山七条までの区間しか開業できませんでした。
また、東山三条とは言わず「三条大橋東四丁目」なる表現に違和感を覚えるとともに注目です。
次の地図も日文献の地図データベースにある大正2年発行『大正最近実測京都市新地図』からです。
電停の名称が東山三条ではなくて「三条大橋東四丁目」となっています。
南北のアクセスが不十分で、東西のアクセスもほとんど三条通だけと言えるような時代では、このような表現が従前のスタイルだったのでしょう。
▼リンクしています
~日文研地図データベース 大正2年発行「大正最近実測京都市新地図」より~
以上のように、稲荷満足神社を界隈とするエリアに、1本南北に貫かれた電車も走る幹線道路が誕生したわけです。センセーショナルな出来事だったに違いないでしょう。
~つづく~
京都仁丹樂会 酒瓮斎・shimo-chan
Posted by 京都仁丹樂會 at 14:14│Comments(0)
│仁丹に見る近代史