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2014年07月22日

新町通花屋町 上る?下る?

新町通花屋町 上る?下る?


今回のテーマは、再び花屋町通です。
この写真は、東本願寺の西側、新町通を北に望んだ光景です。すぐ前に写っている左へと進む通りは花屋町通です。地図によっては「旧花屋町通」と表示されていることもあります。

京都の中心部では下図(左)のように東西南北の通りがいずれも一箇所で正確にクロスしているのが一般的ですが、たまに下図(右)のように少しずれて交差している場合もあります。多少のズレならば、上る下る/東入西入の通り名を組み合わせた住所表示は何ら支障はないでしょうが、このズレが大きくなるといささか問題が起こってきそうです。

新町通花屋町 上る?下る?


それが、今回のテーマとした、新町通を境に南北に大きくずれる花屋町通です。
次の地図は、仁丹町名表示板が設置された昭和初期の新町通と花屋町通の状況です。

新町通花屋町 上る?下る?

~京都市都市計画地図(大正11年側図 昭和4年修正側図)をベースに加工~

戦時中の建物疎開跡地を利用した、新町~堀川間の「新花屋町通」はまだ開通しておらず、花屋町通が新町通で大きくズレていることが分かります。
なお、一般の地図ではこの新花屋町通を花屋町通と表記し、従前の花屋町通を旧花屋町通と記していることも多くありますが、あくまでも正式な花屋町通は今でもこの地図のとおりの段ずれ状態のものを言い、新花屋町通は新町~堀川間のみです。「京都市認定路線網図提供システム」を見るとよく分かります。
でも、これらはあくまでも公称上の呼び方であって、連続性のある新花屋町通も当然に花屋町通だと認識するのが自然でしょう。

この様子を模式図的に表すと次のようになります。

新町通花屋町 上る?下る?


※     ※     ※

さて、ようやく本題です。上の図の赤丸のエリアは、
  「新町通花屋町下る」  「新町通花屋町上る
のいずれなのでしょうか?

当時の様子が知れる「京都市明細図」では新町通の東西とも8軒前後の家があったことが記されており、それは今もあまり変わっていません。

「上る」でも「下る」でも、どちらも間違いとは言えないでしょうが、でも、新町通を北から南へ下がって来た人は「新町通花屋町上る」という表現で、最初に出くわす花屋町通(新町の東側)を越えることはしないのではないでしょうか?
逆に南から北へ上がって来た人は「新町通花屋町下る」の表現で、初めて出くわす花屋町通(新町の西側)を越えることはないのではないでしょうか?

では、仁丹町名表示板ではどのようになっていたのでしょう。その疑問を解いてくれる手掛かりがないかと調べてみました。次の図と写真をご覧ください。

新町通花屋町 上る?下る?

とりあえず7枚ですが、この他にも埋蔵仁丹が少なくとも2枚あります。それにしてもこのエリアに9枚とは付け過ぎですね。“広告益世”の域を越えているような気がします。

さて、注目は④と⑤です。新町の西側の花屋町通を基準に「上る」と「下る」を決めています。まさしく、「上る」「下る」の“分水嶺”みたいです。
現在は④の仁丹はありませんが、かつての状況は次の写真のとおりでした。

新町通花屋町 上る?下る?

                   
当会会員の滋ちゃんがずっと以前に花屋町通(新町の西側)から新町通に向かって撮ったものです。左が④、右が⑤です。

と言うことで、肝心の①と④の間の仁丹がもっと見つからなければ「上る」「下る」の実態は分からないようです。
ちなみに、埋蔵仁丹2枚のうちの1枚はコレです。現在は森下仁丹さんの資料室にあります。

新町通花屋町 上る?下る?

まさに注目の「花屋町上る」なのですが、どこに設置されていたのか分からないのが残念です。仁丹の設置時は東本願寺の北側も花屋町通と認定されていたわけですから、そのラインよりも北側の艮町にも設置可能だったわけです。

※     ※     ※


以上のとおり、結局のところ仁丹町名表示板からは疑問を解くことはできませんでした。
そこで、この近辺の他の町名表示板を参考までに見てみると、次のような状況でした。

新町通花屋町 上る?下る?


14の比較的新しいライオンズクラブさんの表示は、新花屋町通を花屋町通、本来の花屋町通を旧花屋町通と認定したかのように記載されています。1の学林町などは、両方の通り名を併記していて象徴的です。いずれも公称からは逸脱して、通称を使っていることになりますが、分かりやすいことは分かりやすいというのは事実ですね。

56は京都市の広報板です。
5は新花屋町通に面しているにも関わらず花屋町通です。困ったことに役所も公称を逸脱しています。でも、その法則に従うならば、新花屋町通のすぐ北にある6も花屋町通を使わなければならないはずですが、ずっと上の六条通から”下る”となっています。新花屋町通が開通していなかった時代ならば、六条下るという表現が相応しかったのかもしれません。それをそのまま踏襲しているのでしょう。結局、京都市の広報板は地元からの要望をそのまま受け入れているという印象を、他の地域の例からも受けます。

次に7は仁丹、8はアリナミン,910は中京堂のパンがスポンサーのものですが、いずれも本来の花屋町通を採用しています。公称どおりです。

最後の1112は、道路の標識です。さすがに同じ役所とは言え、広報板とは管理者が違うようでばっちり公称どおりです。

※     ※     ※


以上、結局のところ、新町通花屋町上る?下る?の疑問は解けませんでした。
ただ、昭和初期、いくら役所が公称を定めようとも周囲にお住いの方々にとっては長年、新町~堀川間だけが『花屋町通』だった訳ですから、おそらくは段ズレをおこしている区間は気持ちとして”花屋町通上る”だったのではという思いが強くなりました。
いずれにせよ、現在では「花屋町通」「新花屋町通」「旧花屋町通」の公称・通称入り混じった興味深いエリアではあります。住所表示を頼りに初めて訪れる人は、色んな表示に出くわして混乱するでしょう。これも京都の近代史のひとつであることを仁丹町名表示板を通して知ることができました。

~京都仁丹樂會 shimo-chan~




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Posted by 京都仁丹樂會 at 22:49│Comments(2)仁丹に見る近代史
この記事へのコメント
まさしくこの辺りに住んでいたものです。
とても興味深く記事を読ませてもらいました。ありがとうございました。
大正あたりに建てられた家は立て直してしまいましたが、その際、仁丹の看板もどこかに行ってしまいました…
建て替えた時にもう少し関心を持っていたら…と残念です。
Posted by うしとら at 2016年01月10日 11:37
うしとらさん、お読みいただいてありがとうございます。

昔のままそこにじっと佇んでいる仁丹町名表示板は、私たちに京都のことを色々と語りかけてくれます。また、いつまでも大切にされているのを見るとも嬉しいものです。

これからもよろしくお願いします。
Posted by shimo-chan at 2016年01月12日 22:51
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