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2024年04月17日

ドクターイエローと「仁丹」

京都駅の新幹線のホームに仁丹町名表示板が出現したという情報を得たので、早速、探索してきました。
すぐに発見することができました。下りホーム(新大阪方面行)の真ん中、エスカレーターの乗降口にそれはありました。
そして、撮影しようとカメラを構えたところ、なんとドクターイエローが入ってきたではありませんか。まさかのコラボの実現!ラッキーでした。



さて、目的の仁丹町名表示板はこれです。


京都と言えば、やっぱりこれでしょ!と言ったところでしょうか、仁丹町名表示板の代名詞とも言うべき、京都の琺瑯「仁丹」をモチーフとしたデザインが広告の一部に入っています。
そこに書かれていた住所は、「下京区 東塩小路高倉町8-3」。
日頃、京都駅の住所なんて全く意識していませんでしたが、なるほど、新幹線の京都駅の所在地としてJR東海のHPに出てきます。さすがに通り名は付けようがありませんが。


この商標は、昭和初期設置の京都の琺瑯「仁丹」に使用されているものと同じです。すなわち社史で言うところの昭和2年のものです。



ちなみに、在来線の京都駅はJR西日本ですが、こちらは「東塩小路町」、近鉄の京都駅は「東塩小路釜殿町31-1」とそれぞれのHPでは案内されていました。どこの駅でもその所在地を意識することはありませんが、無いはずもありませんね。

京都駅はインバウンドで溢れかえっていますが、この広告を撮影している外国の人も見かけました。もしかして、仁丹町名表示板が”京都名物”として世界から注目される日が来たりなんかして、と想像してしまいました。

~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 08:50Comments(2)トピックニュース

2024年03月14日

匂天神町の”かぶせ仁丹”

「京都を歩けば『仁丹』にあたる」の第2章冒頭に、「ドキドキの『かぶせ仁丹』開封」と言う記事があります。木製の仁丹町名表示板の上に、琺瑯製の仁丹町名表示板が被さって貼られているのではないかと推察していたのを、実際に外して確かめてみたというお話しです。2年と半年ほど前のことでした。

実は過去の写真の中にも同様のケースが複数見られます。その時はそこまで気付かず、すでに確認できなくなってしまいましたが、四条烏丸の近くにある匂天神町では、この形で現役なのです。


いかがでしょう? 琺瑯製の両端から木製の額縁らしきものが見えているのが分るでしょうか?
縦の長さは両者とも同じ約91cm、横は木製が約18cm、琺瑯製が約15cmなので、木製の上から琺瑯製を貼ると少しばかり横がはみ出すというわけです。

もし、本当に木製が隠れていれば、その住所表記は琺瑯製と同じ「佛光寺通烏丸東入下ル匂天神町」で、前例から通り名は2行書き、町名は大きく書かれ、商標は明治期のものとなるはずです。疑う余地など持っていませんでした。いつかそれを確認できる日があればいいな、というぐらいにしか考えていませんでした。

ところが、俄然、確かめてみたいという事情ができました。
見た目ではなかなか分からないのですが、デジカメで撮った写真をパソコンで拡大して眺めていたところ、非常に興味深いことを発見したのです。


写真の黄色い丸の部分、はみ出した木製の額縁ですが、「青色」に見えるのです。
今まで確認してきた木製はいずれも「赤色」でした。もちろんほとんどの場合、退色してしまって確認しづらくなってはいますが。

そして、一方で、大津市に現存する木製は額縁が青色なのです。


(大津の木製については、2016年03月29日の記事、
全国津々浦々の考証(その9)~大津でも木製仁丹発見!!②~
 に詳しく記しています)


大津で使われている商標は、京都の琺瑯製と同じく、社史によるところの昭和2年とされるものです。すなわち、その配色や商標が京都の琺瑯製と同じだったのです。この事実を知った後に、匂天神町の青色に気付いたというわけです。

もしかして、この匂天神町の木製は、琺瑯製が本格的に量産されるにあたっての試作品のような位置付けではなかったのだろうか! そのように考えるに至りました。

もしそうであれば、 京都の木製➡大津の木製➡京都の琺瑯製 という流れを証明できる大発見となります。これはどうしても確認したいとなりました。

そこで、設置されている家の方に事情を説明し、ご協力を得ることができたのでした。本当に感謝です。


2021年9月17日、遂にその日がやって来ました。朝から小雨がぱらついていましたが、予定どおり、当会会員が大屋根にまで届く長いハシゴを運び込み、家を傷つけないように慎重に取り外し作業を行ったのです。


当初は上の琺瑯製だけを外して、そのまま下の木製を確認および記録するだけの計画でしたが、2 枚合わせて上下 2 箇所で釘付けされていたので、2 枚まとめて取り外すことになりました。そして、地上に降ろして、安全に確認します。

次の写真は、木製に貼り付いた琺瑯製を取り外しているところです。


琺瑯製は釘穴が上下各1箇所、左右に2箇所ずつあり、残りの左右の釘をペンチでひとつひとつ外していきました。

そして、いよいよその下に何が隠れているのか、判明する時が来ました。
これが、その瞬間です!


いくつもの情報が、そして驚きが、同時に目に飛び込んできました。

やはり木製!

でも、上下逆さま! なんで?

大津のようなものではなかった!

商標は明治期!

額縁の色は、確かに青!

しかし、赤い部分もある!

そして、住所は琺瑯製とちゃう!




これら、同時に飛び込んだ情報の整理に頭はフル回転しました。


結果として、やはり琺瑯製の下には木製が隠れていました。そして、それは今までに見てきた標準的な木製でした。もしや大津市と同じようなものが出現するのでは、という期待は見事に砕け散りました。

また、住所表記は、琺瑯製が「佛光寺通烏丸東入下ル匂天神町」と辻子の北側からなのに対し、木製は「髙辻通烏丸東入上ル匂天神町」と南側から導いていました。琺瑯製と全く同じ表記だとばかり思っていたのに意外な結果でした。でも、全く同じポイントでもこのように表現が違っても構わないというのが京都の住所の面白いところです。

そして、なぜ木製は上下逆さまだったのか?
琺瑯製を設置しようとしたところ、そこに木製があり、職人さんがちょっと手を抜いて琺瑯製をそのまま上から貼っただけ、というぐらいにしか考えていませんでした。しかし、上下逆さまで出現したとなると、そうではなく、一旦取り外して単に下地に再利用しただけとも受け取れます。四辺の額縁のうち、上下二箇所が欠けているのは、下地として利用するには邪魔だったからと考えれば理にかないます。

次に、額縁の色です。
確かに見込んだ通り、明らかに青色の部分がありました。でも、従来の木製の特徴である赤色も一部残っていたのです。次の写真、木製の額縁側面に赤色が明らかに確認できます。


いったい、これはどう解釈するべきなのでしょうか?


つぶさに観察すると、青色は次の写真の黄色い四角の部分で確認できました。


これは、周囲の額縁全体を青に塗ったと考えるのが自然かと思います。考えてみれば、琺瑯製が設置されたのは昭和3年、木製が設置されたのは現時点では明治45年が濃厚です。となると琺瑯製を設置しようとした時、そこにあった木製は設置後16年程度です。となれば額縁の赤色はそこそこ鮮やかに残っていたのではないでしょうか。それを下地にするなら、琺瑯製の青のラインに隣接して赤のラインがあることになります。それはいささか見苦しいとなり、木製の額縁も青に塗った。
これは全くの想像ですが、だとすると、赤色と青色の存在は説明が付きます。

では、なぜそこまでして木製を下地にしたのでしょうか?
設置個所を眺めると、柱の横巾は琺瑯製より少し狭いようです。琺瑯製だけを貼ろうとすると側面の釘穴が使いにくかったかもしれません。だから木製を下地にしたのでしょうか?
でも、現実は上下の2カ所の釘で木製もろとも柱に設置されていました。ならば、琺瑯製だけでも上下2箇所で固定できたはずです。さらに琺瑯製は山上げ(蒲鉾状)に加工されているので、側面の釘穴から内向きに釘を打ち込むことも可能だったのではと考えられます。木製を下地にする必要性は少ないような気もします。
また、琺瑯製が柱からはみ出しているケースは他にも見られますが、特に下地がある訳でもありません。

もはや妄想ばかり。謎が謎を呼ぶ展開になってしまいました。


以上、解けた謎もあれば、新たな謎も生まれた調査結果です。

いずれにせよ、およそ100年近くもの長きにわたり、琺瑯製は木製を劣化から守ってきました。おかげで、住所表記や商標は鮮やかに残されていました。そして、木製には必ずある例の意味不明の記号も明確に出現しました。今回は、菱形に漢数字の「六」と「七」でした。


このようにして、現役の仁丹町名表示板を取り外して調べさせてもらうという、当会始まって以来の一大プロジェクトを無事に終え、“原状復帰”させていただきました。木製は元のとおりに上下逆さまで。

~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:41Comments(0)トピックニュース基礎研究

2023年12月30日

車窓からの琺瑯看板


このように線路脇に琺瑯看板があるというのは、かつては日常の光景でした。
2007年4月、兵庫県の三木鉄道の沿線です。国鉄三木線時代からあったものなのでしょう。でも、今は線路も建物もありません。

次は近江鉄道の桜川駅。2001年6月の撮影ですが、ここは線路は今もありますが、建物は消え、琺瑯看板も運命を共にしました。


そして、富山地方鉄道の岩峅寺駅の近く。2010年5月の撮影ですが、ここは今もこのままあります。ただし、現在は草木がもっと茂っていて見つけるのは困難、広告として維持されているとは言えません。


いずれも昭和の琺瑯看板全盛期に列車の乗客をターゲットにして設置されたものでしょうが、その後新たに設置されることはなく、建物の老朽化にともなって減少の一途をたどり、今や絶滅寸前といった感です。
だからこそ、今、見つければ思わず「アッ!」と声をあげそうになります。


先日、近鉄特急で伊勢方面に向かっているとき、そのような経験をしました。声には出しませんでしたが、心の中で「アッ!」となりました。次のような光景が健在だったのです。しかも、仁丹もある!


ここはどこだ?と、場所を調べると、松阪駅のひとつ手前(大阪寄り)の駅の近くでした。その駅名は松ヶ崎、京都の地下鉄にもある駅名でした。奇遇です。

これはしっかり記録しておかねばと、翌日の帰路、立ち寄りました。


そして、先ずはしばし、琺瑯看板群に圧倒されて鑑賞してしまいました。
仁丹は「旅行に仁丹」のキャッチコピー付きです。




一時期使っていたキャッチのようで、大津市の琺瑯製仁丹町名表示板にも「旅行運動に仁丹」があります。他に、「訪問接客に」「日常保健に」「執務勉強に」「急救護身薬に」などもありました。
ちなみに、八尾市には「たばこの前後に」「映画に」「気分転換に」「スポーツに」「乗物酔いに」などがあります。いずれもお勧めのシーンの紹介ですね。


この「仁」と「丹」の看板の大きさは、約90cm四方でした。今回もメジャーは持ち合わせていませんでしたが、スマホで計れることを思い出し、測量してみました。

背を向けるとと、反対側には近鉄電車が走っています。


間に田んぼがあり、看板の設置以後、何も建たなかったのでこうして今も見られるのでしょう。
何末年始、伊勢神宮に行かれる方はちょっとご覧ください。松ヶ崎駅の手前、進行方向の右手です。

なお、この他にも東海道本線の柏原~関ケ原間でも同様の仁丹看板を見ることができます。名古屋方面に向かうなら進行方向右手です。



~shimo-chan~
  
タグ :琺瑯看板


Posted by 京都仁丹樂會 at 14:38Comments(0)トピックニュース仁丹のある風景

2023年12月28日

市バス「仁丹号」を追い求めて


この、「京都を歩けば『仁丹』にあたる」の広告を掲げた市バスがすべて判明しました。
梅津営業所に配置されている約110台のうちの5台で、その車体番号は次のとおりです。

車体番号 1167、2008、2866、3783、4041

梅津営業所が担当する系統のみをチェックしたらよいので、全市バス約800台から探すことを思えばかなりハードルは下がりました。しかし、12月9日から走り出して以来、機会を見つけては「仁丹号」探しをしていますが、そう簡単に出会えるものでもないようです。

あの手この手と試しましたが、現実的で確率の高い見つけ方は、3系統、27系統、32系統に的を絞り、河原町通の市役所前(河原町二条)バス停から四条河原町経由で、四条通を大宮まで歩いて探す。もちろん、逆でもOK。この間を行ったり来たりして探すのが良さそうです。

ベストなのは、これらの系統がすべて重なる四条大宮~四条烏丸間で2~3時間粘って定点観察することです。そうすれば、運用に就いているすべてのバスが把握できるはずです。昼間なら1時間当たり20台以上をチェックできます。車体番号もメモしておくと、原則その順に戻ってくるので撮影ポイントで待ち構えることもできるでしょう。ただ、不審者に映ること必至ですが。

ところで、この車体番号というのは、コレです。


側面でしか見えませんが、ナンバープレートと同じなので前後からでも知ることができます。


梅津営業所が受け持つ系統は、3系統、27系統、特27系統、32系統、52系統、75系統、80系統、特80系統、93系統、特93系統、201系統、M1系統、特205系統などがあるのですが、その車体番号と系統との関連をちょっと頑張ってデータを取ってみました。

すると、オレンジ色の方向幕(今はLEDですが)である循環系統201系統には同じ車体ばかりが使われているようです。つまり、方向幕の色がオレンジか青かで使われる車体がグループ分けされているようです。さらに青のグループでも3系統、27系統、32系統に充当されるグループがあるのでは?という印象を持ちました。わずか数日の、それも限られた時間内でのウオッチングで結論付けるのは早計かもしれませんが。

そして、問題の「仁丹号」の目撃情報は、次のようなものでした。

以上のような状況から、3系と27系統と32系統に的を絞ってもよいのではと判断しました。


これらの系統の特徴は、次のようなものです。

<3系統>
松尾橋からそのまま四条通を東へ。そして河原町通を上って今出川通で鴨川を渡り、北白川へと長距離を往復しています。本数が多く、昼間でも1時間に5~6本程度ですが、朝のラッシュ時は1時間に10本ほど走ります。したがって、投入されるバスの台数も多く、「仁丹号」の入るチャンスも多い系統です。
なお、河原町通夷川では直角貼りのリアルな仁丹町名表示板のすぐ横を走り抜けます。


↑ 実物の仁丹町名表示板とのコラボ


<27系統>
四条通の京都外大前から一旦北上して太秦天神川を経由し、西大路通に出て南下、西院から四条通を東へ四条烏丸へと向かいます。四条烏丸には京都経済センター西の室町通に到着し、全ての乗客を降ろすとビルをぐるっと一周して、京都経済センター前のバス停から始発の27系統になって外大前に戻っていきます。したがって、シャッターチャンスが複数回あります。昼間は1時間に6本程度の運転です。


↑ 四条烏丸を発車する27系統


<32系統>
四条通の京都外大前から西京極付近に出て、五条通を東へ。そして、大宮通を上って四条大宮。次に四条通を東へ進み、河原町通で北上、市役所前から二条通に入って鴨川を渡り、岡崎公園を通り抜けて銀閣寺へと向かいます。銀閣寺付近では鹿ケ谷通などを使ってループ状にUターン、錦林車庫経由で再び外大前に戻ります。本数は日中は1時間に3本程度です。


↑ 四条通の四条高倉(大丸の前)にて



↑ 岡崎公園、京都ロームシアター前にて


なお、二条通川端付近では実物の仁丹町名表示板を車窓から2枚見ることもできます。


この2枚、至近距離に掲げられているにも関わらず、仁丹の商標の位置が違います。孫橋町は新洞学区、新先斗町は川東学区、学区が違うのです。左京区では新洞学区のみ商標は上にあるのです。


「仁丹号」は1カ月間走るとのこと、新年1月9日頃までしか見ることができません。年末年始、河原町通や烏丸通を歩かれる時は、ちょっと気に掛けていただければ嬉しいです。

~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 14:39Comments(1)トピックニュース

2023年12月16日

京都 蔦屋書店さんに琺瑯「仁丹」現る!

「京都 蔦屋書店」さんで、今、実物の仁丹町名表示板が展示されています。

そして、そのすぐ前には
京都を歩けば「仁丹」にあたる 町名看板の迷宮案内
が展開されています。

京都髙島屋に今年10月にオープンした専門店ゾーン「T8」の5階、芸術や建築、京都本などが並ぶギャラリーのようなお洒落な書店です。


日頃は家屋の2階に掲示されていることの多い「仁丹」ですが、ここでは間近で見ることができます。これが100年近く前のものかと驚く美しさ、琺瑯看板のなせるワザをとくとご覧ください。

見どころをご紹介しましょう。


<その1> 手書き文字であることが分かる
通り名や町名の黒い文字は墨やペンキではなく、これも琺瑯であることが分析により判明しています。しかも、すべて手書きなのです。まるで習字のお手本のような美しさ。筆に琺瑯の釉薬を含ませ、習字と全く同じようにササっと書いているのです。その筆使いの様子は、至近距離だからこそありありと見て取れます。


手書きでこれほどバランスよく書くなんて、今の時代なら至難の技です。しかも、謎だらけの仁丹町名表示板、どこで誰が作ったのかはまだ解明できていませんが、昭和3年に何千いや万単位かもしれない数を、手書きで一気に仕上げていく職人さんの技に驚くばかりです。
ちなみに、「区」「万」「寿」など、旧字体が使われています。

<その2>琺瑯看板の造りが分かる
琺瑯看板は釉薬の色の数だけ、高温での焼成作業という工程が必要です。看板の傷跡からは、先ずは白の釉薬がベースとして塗られて一度焼成、その上に青、または赤の釉薬が載せられてまた焼成、そして、最後に黒の琺瑯で住所を書いてまたまた焼成、というような工程がうかがえます。また、基盤となる鉄板は単なる平面ではなく、蒲鉾状に加工されていることも分かります。

<その3>京都市の歴史が分かる
右の2枚は現在は中京区のエリアですが、「上京区」と書かれています。昭和4年までの京都市は上京区と下京区しかなく、その2区時代に製作されたことが分かります。当時はおよそ三条通を境にして、上京区と下京区に分かれていました。


日頃、何気なく見ている仁丹町名表示板ですが、じっと眺めていると様々な謎が潜んでいることが分かってきます。しかし、記録はありません。その多くの謎解きに挑んだのが今回の書籍です。まだまだ面白いエピソードが満載、ぜひ、お読みいただければと願っています。


それにしても、昭和3年に登場した琺瑯「仁丹」、まさかミッフィーちゃんと並ぶなんて、“髭のおじさま”も想像すらしなかったことでしょう。なんという展開!


「京都 蔦屋書店」さんは“アートと文化の「伝統と最先端」が共振する場を提案します”と紹介されています。京都の仁丹町名表示板は、今や広告の域を超えた文化財だと私たちは発信してきましたが、ここで違和感なく展示されている姿を見て、さらにアートにまで昇華したのではないかと感じました。新たな発見ができました。


展示は新年を跨いで続けられるとのこと、この機会にぜひご覧いただければと思います。

~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 20:06Comments(2)トピックニュース

2023年12月12日

「5/800」を探せ!

「800分の5」を探せとは、京都の市バス800台から5台を探し出せ、というミッションです。
このようなバスです!


実は、今回の書籍、出版社の青幻舎さんが市バスに広告を出してくださったのです。
車体後部の看板です。そのバスが5台あるとのこと。そして、市バスは約800台あるとのこと。

果たして、800台の中から特定の5台を見つけ出すことは、容易なことなのでしょうか?
途方もない数値に見えますが、単純計算では160台に1台、どこかのバス停で160台見送ったら1台は見られる計算です。でも、ひとつのバス停で160台も粘るのはあまりにしんどい。

そこで考えたのが京都駅前のバスターミナルです。ここなら、バスが色んな方向からやってきては、出ていきます。それも単なる通過ポイントではなく、ターミナルの中をぐるっと回るから、シャッターチャンスも増えるはず。これは効率抜群ではないか!と考えました。


そう高を括って、このミッションに挑みました。
12月11日、午前10時過ぎ、京都駅前のバスターミナルに立ちます。バスの出入りは凄まじく、良いアイデアだったと自画自賛。案の定、10分ほどで真新しい看板を取り付けた目的のバスがやってきました! しかし、より良い撮影ポイントへと移動している間にバスは姿を消してしまったのです。見事に、撮影失敗!

でも、この調子ならまたすぐに来るだろうと待ち続けます。東京の木製「仁丹」は”9万分の1”だったのだから、”800分の5”なんて楽勝だと、自分に言い聞かせながら待つこと2時間。全然、来ません。もうお昼、ちょっと心が折れてしまいました。


午後は仕切り直しです。
実は、青幻舎さんの公式X(旧Twitter)によれば、“四条通によく出没するらしい”と案内されていたので、素直に従ってみることにしました。そして、四条烏丸から四条河原町へとアテもなく歩き出そうとしたその時でした。すれ違った27系統を振り返って見てみると、付いているではないですか!探し求めている看板が。行き先は、太秦天神川。機転を利かせて地下鉄で追いかけましたが、残念ながら間に合いませんでした。先回りできると思ったのですが、またもや撮影失敗。

が、しかし、予期せぬことが。
太秦天神川のバスターミナルに入って来た75系統に付いているではないですか!
それが、冒頭の写真なのです。遂に、撮影に成功しました!


実に楽しくさせてくれるデザインです。周囲の青色も琺瑯仁丹を連想させてくれます。今回、この看板を探すのに随分と色々な看板を見てきましたが、センスはピカイチだと思います。


京都駅前で狙う、地下鉄で先回りする、と知恵を絞った作戦はいずれも失敗に終わり、何ら予想もしていなかった偶然に助けられたという、なんだか複雑な心境でした。

なお、四条烏丸で見かけた27系統(車体№4041)、撮影できた75系統(車体№3783)はいずれも梅津営業所のバスです。朝、京都駅で目撃したのも№は不明ですが75系統でした。少なくても梅津営業所には5台のうち2台が居ることは判明しました。北白川~松尾橋の3系統や循環201系統も梅津営業所ですから、これらのバスが充当されれば京都一の繁華街で見ることができることでしょう。

さて、残る3台は何処? 広告期間は来年1月初旬ぐらいまでのはずです。


今回は右京区役所の前での撮影でしたが、それまでに、四条通や河原町通、あるいは平安神宮の大鳥居などと一緒にカメラに収めたいものです。

目撃情報がございましたら、情報提供いただければ嬉しく思います。

~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 18:33Comments(2)トピックニュース

2023年11月09日

11月下旬発売!

京都仁丹樂會のこの10年あまりの研究成果などをまとめた書籍、
京都を歩けば「仁丹」にあたる ~町名看板の迷宮案内~
はいよいよ今月下旬に発売される運びとなりました。

帯付きのデザインは、こんな感じになります。 なかなかのインパクトです。



書籍全体のデザインは、すでに600冊以上を世に送り出された画家・装丁家の矢萩多聞さんです。著書も、「インドまるごと多聞典」(春風社)、「インドしぐさ事典」(ambooks)、「偶然の装丁家」(晶文社)などがあります。

そして表紙カバーや本文に登場するイラストは、画集『神保町』(夏葉社)、『御所東考現学』(誠光社)、『本屋図鑑』(夏葉社)などの著書のあるイラストレーター得地直美さんです。

200頁におよぶボリュームですが、お陰様で、柔らかく読み易い素敵な仕上がりにしてくださいました。

すでに出版社である青幻舎のオンラインショップやAmazonなどでも予約が始まっております。
書店にも今月下旬から並びだすかと思います。

~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:03Comments(1)トピックニュース

2023年11月02日

古そうな仁丹看板

仁丹の町名表示板ではありませんが、いわゆる一般的な「仁丹看板」の話題です。
かつての同僚から、『仁丹看板、あるよ』との知らせを受け、現地へ行ってみました。
場所は滋賀県内のとある場所、クルマで通りすがりに見つけたそうです。

琺瑯看板だろうと思い込んで訪れてみたものの、驚きました!
そうではなく、今までに見たことのないものだったのです。


お馴染みの大礼服の商標はなく、商品名「仁丹」のみの看板でした。
文字看板とか切り文字看板と言われる部類ですね。
このデザイン性に乏しい文字の形、見るからにかなり古そうです。

「仁」と「丹」を一文字ずつ描いた正方形の琺瑯看板をセットで貼るケースはよくありましたが、これは琺瑯ではなく、ただのブリキです。
おそらく設置当初は赤色に塗装されていたものと想像しますが、今は茶色に錆びて背後の板塀に同化しており、そこに仁丹があることを気付かせないかもしれません。
よくぞ見つけてくれたと感謝です。

が、しかし、まじまじと見つめているうちに、次第に違和感が増幅してきました。


これは切り文字看板と言うよりも、何枚かの短冊型のブリキでもって文字を形成させているだけではないですか。まるでマッチ棒で文字を描くかのように、です。


「仁」の字は、各短冊の重なり具合から、次の①~④の順に釘で貼っていったと考えられます。


先ずは①を水平に、その下に②を平行に貼って「つくり」を完成させる。
次に「へん」の③を縦に、最後に④を斜めに貼って完成させようとしたところ、最上部が壁の水平部材にぶつかってしまった。でも、ここまでやったのだからエイヤーとやっちゃえと強行した、そんな職人さんの姿を思い浮かべてしまいます。

次は「丹」の字です。


⑤⑥⑦と縦に貼って、その上から⑧を水平に貼る。
次に⑨を縦向きに貼るが、曲線に見せかけるために少し斜めにする。
続いて⑩だが、⑨と同じサイズの短冊かもしれないけど、もしかしたら⑦と一体の可能性もあり得るかも。

そして、⑪を取り付けるも、長さが足りないので左端に⑫の小さなパーツを貼ってごまかした。
⑫の部分をアップすると次のようになるのですが、不足分を継ぎ足したことは明らかです。


なぜ、長いものを用意しなかったのか? もしかしたらできなかった? ⑪の長さが、元々材料となったブリキの大きさの規格から最大だったのでは? それはもしや半間である約90cm? 帰宅後に撮影してきた写真を睨みながら、いろんなことを考え込んでしまい、メジャーで測量しておくべきだったと後悔しきりです。

写真から判断すると、9~10種類の長さの短冊を用意しておけば「仁丹」の2文字を作ることができそうです。


これを看板と呼んで良いのかどうか、ちょっと疑問に思いますが、屋外広告には違いありません。ちょうど近くに鉄道が開通したのが大正の末期なので、その車窓から見えるように設置したのでしょう。

「仁丹」の発売が明治38年、琺瑯看板が普及し出したのが大正末期、京都市に数多く残る琺瑯の仁丹町名表示板の設置が昭和3年として、森下仁丹さんが琺瑯看板を採用する直前にはこのようなペンキ塗りのブリキの文字看板も使っていた。そのように推理しても無理はないのかなと思います。
~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:18Comments(1)トピックニュース

2023年10月17日

研究成果を書籍に!

京都を歩けば「仁丹」にあたる
~町名看板の迷宮案内~


株式会社青幻舎HP 近刊予告
https://www.seigensha.com/books/978-4-86152-936-8/




とうとう書籍を出版することになりました!

京都を歩けば、まちのあちこちで出会う仁丹の町名表示板。

いつしか関心を持ち、そして気が付けばその「魅力」と「謎」の沼にどっぷりハマっていた人たちが、2010年に集まったのが「京都仁丹樂會」なる同好会・研究会でした。

その目的は、実態調査にしろ謎解きにしろ、ひとりではなかなか難しい、だから集まってみんなで協力しようというものでした。

すると、やはり効果がありました。
当初は五里霧中に居るかのような状況でしたが、それぞれの研究成果を持ち寄り、共有し、そして様々な角度から議論しているうちに、閃きがあり、新たな発見があり、それらの相乗効果も働き、ぼんやりと描いていた想像が、次第にシャープな実像になっていきました。

今まで判明した事柄はその都度、当ブログなどで発信してきましたが、ちょうど結成10年を迎えた2020年、一度すっきりまとめてみようじゃないかと、書籍発行の動きが始まりました。
あれから3年経過しましたが、当会設立時より度々取材をしてくださった京都新聞社の樺山聡記者とコラボする形で、この度、株式会社青幻舎さんより出版の運びとなった次第です。

学術論文のようなまとめ方ではなく、ドキュメンタリータッチな読み物として楽しんでいただけるような体裁になっています。

11月中旬~下旬ぐらいに完成するよう、現在、最終調整に励んでおります。
書店に並んだ際には、ぜひ手に取っていただければと思います。

~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 16:53Comments(3)トピックニュース

2023年08月19日

パワースポット誕生?

徳川家康と仁丹?

先日、2023年6月30日の京都新聞朝刊を見て、その奇妙な光景に目が点になりました。
家康も「仁丹」を好んで口にしていたという記事ではありません。いくら超ロングセラー商品でも、それは無理です。

早速、現地へ行ってみました。ここです。


確かに、紛れもなく、仁丹と徳川家康が至近距離におられるではないですか。
場所は、上京区の佐々木酒造さんの蔵です。


この仁丹町名表示板は今から10年前に佐々木酒造さんご協力のもと設置させていただきました。


その経緯については、当ブログ2013年07月27日の記事「佐々木酒造さんに仁丹町名表示板設置!」をご覧ください。




さて、新聞記事の内容は、次のような石碑が建てられたというものでした。


佐々木酒造さんの所在地には、その昔、徳川家康が住んでいたというのです。
その邸宅跡だという石碑でした。
ここは「聚楽第」の南に当たり、徳川家康の邸宅があったという史料に合致するのだそうです。

横には詳しい説明板も設置され、それによれば幕末には北側に徳川幕府若年寄の永井尚志邸宅があり、新選組局長近藤勇や坂本龍馬も訪問していたとあります。

なんとビッグな名前のオンパレードでしょうか。

そもそも、佐々木酒造さんといえば洛中唯一の酒蔵であり、俳優佐々木蔵之介さんのご実家としても有名です。そして、そこにはその昔、徳川家康が住み、近藤勇や坂本龍馬も近所を歩いていた。さらには、今年創業130周年を迎えた森下仁丹創業者にして日本の広告王の異名を持つ森下博氏も参集。
この時空の重なり、まさにパワースポットに思えてきました。

ちなみに、この石碑を建てられたのはNPO法人「京都歴史地理同好会」であり、その理事長は「御土居堀ものがたり」などで知られる中村武生先生です。先生の著書「京都の江戸時代をあるく」のあとがきでは、京都では「鎌倉・室町時代はまだしも、江戸時代なんて『昨日』のように扱われる」と述べられていたのが印象的でした。同じ尺度で言えば、仁丹町名表示板に関わる謎はまさに“今日”なのです。にもかかわらず、謎の多いことにもどかしさを感じます。

~shimo-chan~
  


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2023年07月17日

祇園祭と仁丹~前祭~

本日、7月17日は、祇園祭の前祭。山鉾巡行日でもあります。

少し意外かもしれませんが、仁丹町名表示板と祇園祭のコラボが見られるポイントが何か所かあります。そのベストなポイントは、ここ山伏山かなと思います。


「下京区 室町通蛸薬師下ル山伏山町」の仁丹町名表示板が左端に見えます。


日頃は町家の、それも樋に少し身を隠すようにひっそりと佇んでいるので、気付く人は少ないでしょうが、祇園祭ともなれば表舞台に立つ仁丹なのです。

今は中京区だけど、仁丹は「下京區」。
中京区が誕生する直前の昭和3年に一気に設置されたであろう琺瑯仁丹は、今年で95歳!
今年も見られてホッとしました。

~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:21Comments(1)トピックニュース仁丹のある風景

2023年06月23日

文化庁と仁丹町名表示板

京都にやってきた文化庁について、先日、京都新聞にこのような記事が載りました。
所在地の表記がおかしいんじゃない?という内容です。


京都府庁の敷地内にあった旧府警本部跡に文化庁が来ると聞いて、京都の人たちは「あぁ、あそこか」とその場所がインプットされたかと思います。だから改めて文化庁の所在地がどこなのか、などと気にしません。しかし、今回、当会にも取材があり、発表されていた所在地を見て唖然としました。

文化庁のHPでは、「京都府京都市上京区下長者町通新町西入薮之内町85番4」となっていました。“京都府京都市”、“85番4”という表現にも引っ掛かりましたが、それよりも何よりも、“下長者町通新町西入”なる通り名の組み合わせが、京都の文化から言えば致命的でした。

府庁敷地内からも入れるようですが、文化庁玄関前のINFORMATIONには新町通から入るようにと案内されています。



ならば、京都の文化に従えば“新町通下立売上る”です。これなら百人中百人が何の疑問も呈さないでしょう。ところが、下長者町通新町西入。そこには新しくできた府警本部の建物しかありません。まぁ、府警本部を通り抜けして府庁敷地内に入れば、文化庁にも辿り着けるのでしょうが。


先ず、京都府庁が所在する藪之内町は次の赤い線のような町域になっています。下長者町通の北側に民家などが建ち並ぶ他は、青い線で示す85番地3と85番地4の2つの土地を府庁が一体利用しています。いずれもイメージなので、正確なラインではありません。特に85番地3と85番地4の境界線はこのような直線ではありません。


そして、文化庁は85番地4にすっぽり収まっており、下長者町通には全く面していません。

仁丹町名表示板に関心を持たれた方はすでにご理解いただいているでしょうが、ひとつの町名に対して通り名の組み合わせは複数あります。

例えばこの藪之内町の場合であれば、北から時計回りに見ていくと理論上は次のような表記が考えられます。

1.下長者町通新町西入 藪之内町
2.新町通下長者町上る 藪之内町
3.新町通下長者町下る 藪之内町
4.新町通出水上る 藪之内町
5.新町通出水下る 藪之内町
6.新町通下立売上る 藪之内町
7.下立売通新町西入 藪之内町
8.下立売通釜座東入 藪之内町
9.下立売通釜座西入 藪之内町
10.下立売通西洞院東入 藪之内町
11.西洞院通下立売上る 藪之内町
12.西洞院通出水下る 藪之内町
13.西洞院通出水上る 藪之内町
14.西洞院通下長者町下る 藪之内町
15.下長者町通西洞院東入 藪之内町

なんと藪之内町だけで少なくとも15通りはあり得るのです。同様のことは京都市の中心部の町名の全てで言えることであり、そのような町名の数は1,500を優に超えます。

行政向けに全国の公称町名をまとめた便覧などは昔からありますが、京都市だけにここまで掘り下げて記載するわけにはいかず、ほんの代表的な通り名の表記しかされません。そこが他所の人から見ると悩みの種になるのです。通り名の組み合わせの部分がもはや大字小字の大字のように受け取られ、このような表記は便覧に載っていない、間違っている、同じ場所じゃないとなるのです。書き切れないから載っていないだけなのですが。しかし、書類に根拠を置く役所としては便覧に掲載されていない表記を認めるのはとても勇気の要ることでしょう。


さて、上記15通りのどの表記を使うかは、建物の入口が面している、あるいは人を導きたい通り名が最初にある表記から選びます。京都府庁であれば85番地3と85番地4という広大な土地を一体的に使用しており、その敷地への正面玄関である正門が下立売通にあるので、「京都市上京区下立売通新町西入藪之内町85番地3、85番地4合地」が最も厳格な表現になるでしょう。実際、京都府のHPでは「京都市上京区下立売通新町西入薮ノ之内町」となっています。

番地まで明記しなくても分かるので、表向きにはこれで十分なのです。さらにアクセス方法として案内するだけなら町名すら不要です。日頃は、通り名の組み合わせで表現するだけで十分に用が足り、いちいち町名まで書かない、言わないのが通常です。しかし、役所に出すような正式な書類には町名番地も加えたフルスペックで書きます。つまり、フォーマルとカジュアル、上手く使い分けている、それが京都の文化なのです。

文化庁も府庁の敷地内にあるので、府庁と同じにしました、としたら良かったのに“下長者町通新町西入薮之内町85番4”としてしまいました。北側の85番地3であればそのとおりです。今はそこには新しい府警本部があり、そのHPでは「京都市上京区下長者町通新町西入藪之内町85番地3」とバッチリ100点満点の表記です。

しかし、文化庁、なぜこのような所在表記になったのか? 新聞では土地の登記簿どおりに従ったとあります。まさかと思いましたが、土地登記簿では85番地3も85番地4も同じ「下長者町通新町西入」になっているのです。明治38年の保存登記からです。確かにこの表記で藪之内町に間違いなく辿り着けるので、そこの●●番地となれば特定でき、理屈は通ります。役所が所在する土地の登記簿など、まず表に出ることはなく、現状に馴染むように修正されていなくても何の支障もないと思います。要は一般に対してアナウンスする所在地として何が適切かでしょう。今回、それは「新町通下立売上る」でなくてはならなかったのです。「新町通下長者町下る」や「新町通出水下る」でも間違いではありませんが。


ところで次の写真は、文化庁のすぐ近く、椹木町通と衣棚通との交差点です。


ここの同じ家屋に2枚の仁丹町名表示板があります。


一つは「上京区衣棚通椹木町上ル門跡町」、もう一つは「上京区椹木町通衣棚東入門跡町」です。


どちらの通りに面するかで通り名の表現が違います。これぞ、京都の住所表現、京都の文化なのです。やっぱり仁丹町名表示板は改めて凄いと感動します。


しかしながら近年、地図アプリの進化と共にこの文化がないがしろにされているような気がしてなりません。もはや区と町名と番地しか書かず、通り名を飛ばすケースが多く見られます。それが正式な住所なのだと思い込んでいる人も増えているそうです。

さらに、近頃、マイナカードに関連してか「住所の表記ゆれ」なる語句をよく耳にするようになりました。1丁目2番3号を1-2-3と書く、1番地2を1-2と書く、藪之内町を薮ノ内町と書くなどです。いずれも正式に書くのが面倒なので簡略化しているわけですが、正式な表記を知った上で揺れるのと、知らないまま揺れているのとでは意味が違います。

このようなことを考えながら京都の様々な店舗や会社の所在地を見るのも興味深いものです。中には京都のことを全く理解していないなというところもあります。

さて、今回の文化庁は、いささか気の毒な面もあります。新聞記事によれば、「所在地表記については府に事前に相談したが異論はなかった」とされています。京都独特の表記についてお墨付きをもらって安心されたのかもしれません。しかし、京都の役所の人だから、みんなが京都の表記ルールを知っているとは限らないのです。それは市内でよく見かける京都市広報板で知ることができます。

次の写真はほんの一例です。


広報板の下部に町名表示板が付けられています。広報板の設置要綱では、「町名表示板を取り付ける場合は、設置場所の住所を記載するものとする」とあるのですが、この広報板が実際に設置されているのは「中京区新町通四条上る東入小結棚町」なのです。一見、似ていますが、違うのです。

このケースでは四条通が先に書かれています。となるとこの広報板は四条通にあることになるのです。さらに四条通は東西の通りなので“上る”の選択肢はなく、「東入」か「西入」の二択です。転入届にこの住所を書いたら、受理されません。言わんとすることは、四条通と新町通との交差点をとにかく北へ行くということでしょう。さらに厳格に言えば、新町通を単に“上る”だけではなく、そこから東へと入った名のない通路に設置されているので、「上る東入」となります。もし、仁丹町名表示板がそこにあったのなら、そうなっていたことでしょう。

なぜ、このようになったのか? それは関わった職員みんなが京都の表記ルールを知らなかったからでしょう。実は意外ですが、正確な知識を持ち合わせているのは、住所に関連する仕事を経験した、あるいは中心区の出身で自然と身に付いたという一部の職員さんだけのようです。


以上、カオスな京都の住所表記、所在表記のお話しでした。
あまり目くじらを立てるものではありませんが、転入届で受理できないような表記を役所自らが堂々と使うのはいかがなものかと思います。
~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 19:33Comments(0)トピックニュース

2023年03月29日

桜、満開!

満開だった梅も、昨日は新緑となっていました。
そして、京都は今、桜が満開です。





仁丹町名表示板とコラボできるポイントを探すのは難しいのですが、写真は、
「下京區 大和大路通新門前上ル西之町」
です。

~shimo-chan~
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 08:39Comments(0)トピックニュース仁丹のある風景

2023年03月11日

梅、満開!

東山区は「安井金比羅宮」の北門の近くに小松町の仁丹町名表示板があります。

「下京區 安井北門前通東大路西入 小松町」

です。



ご覧のように、今、満開の梅と、美しく整備された町家、そして仁丹町名表示板という見事なコラボを見せています。

町家は宿泊施設になっていますが、改装とともに姿を消す仁丹が多い中、しっかり残されているのが嬉しいです。
こうして見ると、まさに仁丹町名表示板は景観の一部分であり、町家の付加価値にも貢献しているように思います。
~shimo-chan~
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 17:44Comments(2)トピックニュース仁丹のある風景

2022年10月04日

木製仁丹の直角貼り

先日、2022年9月7日の京都新聞朝刊に「京の出版社 人文書院、100年の軌跡」という大きな記事が掲載されました。そして、「創業の地である河原町通二条下ルにあった人文書院社屋」なるキャプションでセピア色の写真が掲載されていました。

この写真です。立派な家屋です。



大正6年当時とあり、同社HPの会社概要の沿革に鮮明な写真で紹介されています。

常日頃、仁丹町名表示板を探す習性が付いていると、古写真を見ても反応してしまいます。もうお分かりかと思いますが、写真左の柱に仁丹町名表示板が2枚、“究極の直角貼り”で掲げられているのです。それも、これは木製仁丹です!

琺瑯仁丹ではこの”直角貼り”、次のように何度か見かけましたが、木製では初めてです。


いずれも、同じ町名ではあるものの、どちらの通りに面して設置するかで、通り名の順序を入れ替えています。しかし、今回の例は少しばかり違いました。



表記は向かって右側が
河原町通御池上ル 一ノ船入町
そして、左側が
河原町通二条下ル東入 一ノ船入町
と、琺瑯仁丹では見かけなかったパターンでした。

この場所は現在、ホテルオークラの敷地になっています。ならば、“河原町通御池上る”だけで十分、わざわざ二条通からも誘導しなくてもと思いますが、それは今だからの感覚であることに気づかされます。

大正6年と言えば、河原町通が拡幅されて市電河原町線が開通する10年ほど前、そして御池通の建物疎開が実施される30年近く前、ということになります。一方で二条通は明治28年から京都電気鉄道(京電)が走っていました。二条通がむしろメインストリートであり、ハイカラな時代だったわけです。納得です。

設置当時の京都のまちの姿を思い巡らせてくれるのも、仁丹町名表示板の魅力のひとつです。

ところでこの写真から得られる情報は他にもありました。大きさです。縦の長さが完全には一致していません。品質管理はそう厳格ではなかったということでしょうか。
それから、横が柱からはみ出しています。横幅は木製仁丹が約18cm、琺瑯仁丹が約15cmです。はたして設置した時の納まりの良さから15cmになったのかどうかは分かりませんが、琺瑯仁丹は柱にすっぽり収まって美しいのは事実です。

~shimo-chan~


  


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:58Comments(1)トピックニュース

2022年08月01日

東京の木製仁丹 寄贈へ

2022年6月10日の当ブログ記事でお知らせしましたとおり、東京の木製仁丹町名表示板を7月29日に森下仁丹株式会社様に寄贈いたしました。


写真は、森下仁丹株式会社経営企画室室長 地主紀之様(左)と京都仁丹樂會代表 立花滋(右)です。

ただ、現物だけでは単なる板切れにしか見えませんので、そもそもはこのようなものでしたと再現したレプリカも進呈しました。


再現にあたっては、東京のかつての古写真や京都市に残っている木製仁丹、さらには公文書にある大阪市などの町名札作成要領などを参考にしました。

大きさは、今回の東京の実物を計測すると縦785ミリ、横177ミリ、厚み8.5ミリでした。しかし、木材は乾燥・経年によって縮み、それは木目の向きによって、縮む割合が変わります。さらに節目部分は元々堅くて縮みはほとんど無いと考えられます。今回のケースでは、横の縮みは大きく、縦の縮みは小さいはずです。
このことから、元々の大きさは、当時の尺基準で、縦2尺6寸(787.87ミリ)、横6寸(181.81ミリ)、厚み3分(9.09ミリ)ではなかったかと推測され、その寸法で再現してみました。

しかし、これらだけではまだ今回の貴重さを説明することができません。そこで、その位置づけを説明するために東京都公文書館の大正10年「町名標示ニ関シ照会ノ件」をベースにした冊子を作成のうえ、当会会員による学術論文とともに進呈させていただきました。




ところで、東京は根津神社近くの元々の設置場所には、再現したレプリカを次の写真のように設置させていただいています。ご協力に感謝です。


森下仁丹株式会社さんは来年、創業130年を迎えます。この節目にタイミングよく登場した東京の木製仁丹、何か不思議な縁を感じます。

~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 15:42Comments(1)トピックニュース

2022年06月10日

東京の木製仁丹 保存へ

この度、東京都文京区は根津神社の近くにこのような木製仁丹町名表示板のレプリカを設置させていただきました。大正時代に9万枚設置されたという東京市の木製仁丹町名表示板、本来の姿です。



当ブログでは2015年3月から1年間、「全国津々浦々の考証」なる記事を9回に分けて発表しました。これは1995年に発行された森下仁丹株式会社100周年記念誌「総合保健薬仁丹から総合保健産業JINTANへ」に記述されている『明治43年からは、大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり』という有名な一文について根本的に検証しようとしたものです。

結果、琺瑯看板が普及する以前のことなので、これらは木製のことを言っているのだと結論付けました。そして、ここに挙げられた都市の中でその存在が当時確認できていたのは京都と東京のみでした。京都は現物と古写真で、東京は古写真でのみ確認していました。ちなみにここでは例示されていませんが、大津市でも実物と古写真で、さらに舞鶴市でも古写真で確認できています。大阪は戦後の琺瑯製は現存していますが木製は未確認、名古屋は木製も琺瑯製も未だ確認できていません。

ところで特筆すべきは東京でした。東京都公文書館から大正7~9年におよそ9万枚を設置したと当の森下仁丹(当時は森下博薬房)が回答している文書が見つかったのです。

その詳細は次のブログ記事をご参照ください。
  全国津々浦々の考証(その4)~東京で仁丹発見!!!②~
  2015年04月08日 https://jintan.kyo2.jp/e464515.html

9万枚という驚くべき大きな数字、1枚ぐらい残っていないものかと誰しも考えるでしょう。しかし、直後の大正12年には関東大震災が発生し、戦時中は東京大空襲、戦後は戦後で住居表示の実施やバブル経済の到来と、旧来の町名表示板としては壊滅的な打撃の連続でした。仮に、万が一残っていたとしても所詮は木製、判別できないほどに劣化していて見つけることはできないだろう、などと話していました。


ところがです!
ブログ「東京あるけあるけ」や「歩・探・見・感」の主宰者さんから、「これ、もしかして東京の木製仁丹の可能性はないだろうか?」との問い合わせがありました。根津神社の近くの木造家屋に付いている、パッと見“板切れ”でした。

早速、京都仁丹樂會東京支部(会員は基本的に京都市近辺なのですが、一人だけ東京に居住しているので、こう呼んでいます)が現地調査、次のような写真が得られました。雨戸の戸袋の一部としか見えませんが。



正確には、この写真は2度目の訪問時のものです。以前は、この上に金属製の他の看板が被さっていて木製仁丹の上部と下部、ほんの少ししか見えていなかったのです。詳細は知りませんが、覆っていた金属製の看板が取れているとの知らせがあり、改めて訪問すると明らかに町名らしき黒い文字が姿を現していたのでした。

最上部には行政区名として左横書きで「區郷本」とかろうじて読み取れます。東京市本郷区は昭和22年まで存在し、現在の文京区の東部のエリアでした。



次は中央部です。縦書きで「根津須賀町」と今度は明確に読み取ることができます。長年、金属の看板で保護されていたためでしょう。根津須賀町は昭和40年4月1日の住居表示の実施で、文京区根津一丁目の一部となりました。



次に地番として「四番地」が現れました。国会図書館のデジタルライブラリで閲覧できる大正元年の「地籍地図」によれば当該地はまさに四番地でした。



そして、最下段ですが金属製看板に守られていなかった部分なので劣化は進んでいるものの、かろうじて仁丹の商標の凹凸が見えます。


いかがでしょう、見えるでしょうか? こんな感じでうっすらといらっしゃいます。



町名部分などに凹凸が付いているのは、墨で書かれた部分とそうでない部分との木の瘦せ方の違いからだと推察できます。

このように東京の古写真で見た木製仁丹と書式も同じ、これはもう奇跡的に生き残った9万枚のうちの1枚と考えるべきだろうとなりました。


さて、次にどうするか?です。ここまで分かったのであれば然るべき施設で保存しなければ朽ち果てるだけです。今のうちに救い出さなくてはと、しばらく悶々とした日々が続きましたが、今年2022年5月初旬、仕事で東京へ出張することになった京都在住の会員が、”東京支部”と共に現地を訪れました。すると、本体が割れてしまって地面に落下していたそうです。確かに設置されていた当時の写真を見ると、すでに木目に沿って縦に3分割になっているようにも見えます。

これはほっとけないとばかりに、家の方とお会いし、事情を説明するとともに保存に向けての提案をさせていただきました。とは言っても、見ず知らずの者が突然訪れて頂戴するわけにはいきません。とりあえず修繕するために預からせていただき、一か月後に返却することを約束して、承諾を得たうえでお預かりしました。

このように、あれよあれよという間に展開してしまい、その日のうちにその東京の木製仁丹は新幹線に乗って京都にやってきたのでした。早速、臨時例会を招集、実物を見分するとともに今後について話し合いました。



次の写真は臨時例会で披露された修復後の姿です。裏から木を当て3つに割れていたものを合体させました。京都仁丹樂會には様々な年齢や職業の者が集まっているので、職業柄このようなことが得意な会員により細心の注意を払って修復させていただきました。



大きさは、実寸で縦785mm、横177mm、厚み8.5mmでした。木材は乾燥や経年によって縮みますが、それは木目の向きにより割合も変わってきます。さらに節目部分は元々堅く縮みはほとんど無いと思われます。今回の場合、横の縮みは大、縦の縮みは小のはずです。このようなことから、元々の大きさは、尺基準で縦2尺6寸(787.87mm)、横6寸(181.81mm)、厚み3分(9.09mm)だったのではと推察できます。

次は、左より順に京都の木製、今回の東京の木製、そしてそのレプリカ(製作中)です。京都のものよりは縦が短いことが分かります。商標の位置は、京都、大津、舞鶴ではすべて上にありましたが、東京は複数の古写真でいずれも下にあります。



レプリカですが、白地に赤の枠と随分と派手に見えるでしょうが、京都の木製も元々はこの配色であり、東京の場合も同様の配色であったであろうと現時点では考えています。ちなみに、先の東京都の関連公文書の中に「町名札製作仕様書」というのがあり、『白ペンキ三遍塗ニシテ(略)黒色ペンキニテ町名ヲ楷書体ニテ記入スル事』とあります。

興奮しながら、ひととおりの見分を終えると、これからどうするのかという議論になりました。当然のことながら約束どおりにお返しすることが大前提ですが、しかし現状復帰すると劣化がますます進むことは明白です。そして、盗難の危険も気になります。この機会に保存する方向で具体的に話を進められないものかと熱く議論しました。保存するにしても個人が持つわけには行かず、やはり地元の公的な施設または森下仁丹株式会社であろうとなり、お返しにあがった時にはある程度具体的に提案できるようにしたいなとなりました。



さて、1カ月後の6月5日、約束どおりに返却にうかがいました。その時はレプリカも持参し、そもそもはこのようなものであったことを説明、そしてとても貴重なものなのでぜひとも保存させていただきたいとお願いしたところ、ご理解いただき、快諾していただきました。本当に感謝です。そして、現物は再び京都入り、代わりに現地にはレプリカを設置させていただきました。家の方のお話しでは、以前はその周囲に結構あったのだそうです。

そして、保存先ですが、地元の施設にも当たってみましたが、結果としては森下仁丹株式会社が受け入れてくださることになりました。現物だけでは何なのか分かりにくいので、レプリカをもう1枚作成し、セットで寄贈させていただく段取りで進めております。同社には他にも様々な資料が全国から寄せられており、イベントなど機会あるたびに展示もされていますので、今回の東京の木製仁丹も公開されることもあるだろうと期待しております。

以上のような経緯でした。関心を持っておられた東京の方々にはご心配をおかけしました。町名表示板は本来の場所にあってこその価値だと常日頃言っている私たちですが、今回は非常に貴重な1枚であり、なおかつこのまま劣化の一途を辿るので、保存するべきと判断した次第です。ご理解いただきますようお願いします。

それにしても9万分の1の奇跡が起こりました。関東大震災、空襲、高度経済成長と激動の東京を目の当たりにしてきた“大礼服姿のカイゼル髭のおじさん”は最新鋭の新幹線に3度も乗って、東京~京都間を行き来しました。その光景を想像するだけでも不思議な出来事でした。

~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 17:49Comments(6)現況報告トピックニュース

2020年12月02日

再びの復活を願って

ブログの更新が長らく行われていませんでしたが、これより順次再開させていただきます。



先ず、その第一弾が嬉しい出来事ではないのが残念ですが、昨年、劇的に復活した「大和大路二丁目」の仁丹のことです。

ご協力いただいた東山パインさんが立ち退きのため、この夏に閉店されました。
あれ以来、重要文化財でもある煉瓦造りの国立博物館正門を眺めながらのコーヒータイムに何度か訪れていたのですが、誠に残念です。



さて、奇跡的に復活した仁丹町名表示板ですが、引き続きご近所に掲出されるよう託されています。ひとまずは安心しました。あとは1日も早い再びの復活を願っています。



閉店後のパインさんの入口には、長年のお馴染みさんからの惜しむ声がいっぱい寄せられていました。東山パインさんの1日も早い復活も合わせて願っています。

京都仁丹樂會 shimo-chan
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 11:46Comments(0)トピックニュース

2019年11月26日

埋蔵仁丹 感動の復活!

京都国立博物館の正門前にある喫茶店に仁丹町名表示板があるという情報を入手、早速伺ったところ、ドアを開けるなり「あっ!あった!」となりました。店内の壁にもたれ掛かった状態でした。

下京区 大和大路通七條上ル 大和大路二丁目』です。





この仁丹、ずっと以前に少し南側の路地の入口に掲げられていたものと住所の表記も傷跡もすべて一致、てっきり消滅してしまったものと思っていたのが埋蔵されていたことが分かりました。

お話によれば、昨年の台風の影響で出た瓦礫の中に混じっていたとか。そのまま処分するのはいかがなものかと救出され、とりあえず店内に置かれていたものでした。

そして、仁丹町名表示板の設置時期やその価値などを説明していると、『よっしゃ!付けよう!』と店主さんのご厚意とテキパキとした行動力によりすぐさま復活となったのでありました。






奇跡のような感動のひと時でした。ありがとうございました。

場所は京都国立博物館の西側、正門前にある『喫茶&雑貨 東山パイン』さんです。
古民家を利用した、木の温もりに包まれたとても居心地の良いお店です。重要文化財の博物館正門を眺めながらもよし、あるいは奥の庭を眺めながらもよしと何度も訪れたくなりました。コーヒーの味にも感動しました。

このようなわけで、京都国立博物館の正門という重要文化財に向き合い、今や“京都の文化財”でもある仁丹町名表示板が改めて現役復帰したのでありました。
~京都仁丹樂會~
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 23:51Comments(0)トピックニュース

2019年04月08日

仁丹樂會・例会通信~平成31年3月31日~

先日(3月23日)の京都新聞に「京都・西陣(写真 辻良一)」という写真集が出版されたという記事が載りました。
50部の印刷で、京都市の図書館等に寄贈されたとの事でしたので、早速、楽会メンバーが仁丹住所表示板が写っていないか確認してきました。

6〜7枚写っている写真がありましたが、残念ながら楽会で把握していない新発見のものは、見つかりませんでした。
ただ、その中に、仁丹の看板に似せて作られた西陣空襲に関する看板がありました。

やっぱり京都で看板と言えば仁丹ですね。



たけちゃん
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 02:33Comments(2)トピックニュース