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2024年03月14日

匂天神町の”かぶせ仁丹”

「京都を歩けば『仁丹』にあたる」の第2章冒頭に、「ドキドキの『かぶせ仁丹』開封」と言う記事があります。木製の仁丹町名表示板の上に、琺瑯製の仁丹町名表示板が被さって貼られているのではないかと推察していたのを、実際に外して確かめてみたというお話しです。2年と半年ほど前のことでした。

実は過去の写真の中にも同様のケースが複数見られます。その時はそこまで気付かず、すでに確認できなくなってしまいましたが、四条烏丸の近くにある匂天神町では、この形で現役なのです。

匂天神町の”かぶせ仁丹”

いかがでしょう? 琺瑯製の両端から木製の額縁らしきものが見えているのが分るでしょうか?
縦の長さは両者とも同じ約91cm、横は木製が約18cm、琺瑯製が約15cmなので、木製の上から琺瑯製を貼ると少しばかり横がはみ出すというわけです。

もし、本当に木製が隠れていれば、その住所表記は琺瑯製と同じ「佛光寺通烏丸東入下ル匂天神町」で、前例から通り名は2行書き、町名は大きく書かれ、商標は明治期のものとなるはずです。疑う余地など持っていませんでした。いつかそれを確認できる日があればいいな、というぐらいにしか考えていませんでした。

ところが、俄然、確かめてみたいという事情ができました。
見た目ではなかなか分からないのですが、デジカメで撮った写真をパソコンで拡大して眺めていたところ、非常に興味深いことを発見したのです。

匂天神町の”かぶせ仁丹”

写真の黄色い丸の部分、はみ出した木製の額縁ですが、「青色」に見えるのです。
今まで確認してきた木製はいずれも「赤色」でした。もちろんほとんどの場合、退色してしまって確認しづらくなってはいますが。

そして、一方で、大津市に現存する木製は額縁が青色なのです。

匂天神町の”かぶせ仁丹”

(大津の木製については、2016年03月29日の記事、
全国津々浦々の考証(その9)~大津でも木製仁丹発見!!②~
 に詳しく記しています)


大津で使われている商標は、京都の琺瑯製と同じく、社史によるところの昭和2年とされるものです。すなわち、その配色や商標が京都の琺瑯製と同じだったのです。この事実を知った後に、匂天神町の青色に気付いたというわけです。

もしかして、この匂天神町の木製は、琺瑯製が本格的に量産されるにあたっての試作品のような位置付けではなかったのだろうか! そのように考えるに至りました。

もしそうであれば、 京都の木製➡大津の木製➡京都の琺瑯製 という流れを証明できる大発見となります。これはどうしても確認したいとなりました。

そこで、設置されている家の方に事情を説明し、ご協力を得ることができたのでした。本当に感謝です。

匂天神町の”かぶせ仁丹”

2021年9月17日、遂にその日がやって来ました。朝から小雨がぱらついていましたが、予定どおり、当会会員が大屋根にまで届く長いハシゴを運び込み、家を傷つけないように慎重に取り外し作業を行ったのです。

匂天神町の”かぶせ仁丹”

当初は上の琺瑯製だけを外して、そのまま下の木製を確認および記録するだけの計画でしたが、2 枚合わせて上下 2 箇所で釘付けされていたので、2 枚まとめて取り外すことになりました。そして、地上に降ろして、安全に確認します。

次の写真は、木製に貼り付いた琺瑯製を取り外しているところです。

匂天神町の”かぶせ仁丹”

琺瑯製は釘穴が上下各1箇所、左右に2箇所ずつあり、残りの左右の釘をペンチでひとつひとつ外していきました。

そして、いよいよその下に何が隠れているのか、判明する時が来ました。
これが、その瞬間です!

匂天神町の”かぶせ仁丹”

いくつもの情報が、そして驚きが、同時に目に飛び込んできました。

やはり木製!

でも、上下逆さま! なんで?

大津のようなものではなかった!

商標は明治期!

額縁の色は、確かに青!

しかし、赤い部分もある!

そして、住所は琺瑯製とちゃう!


匂天神町の”かぶせ仁丹”

匂天神町の”かぶせ仁丹”

これら、同時に飛び込んだ情報の整理に頭はフル回転しました。

匂天神町の”かぶせ仁丹”

結果として、やはり琺瑯製の下には木製が隠れていました。そして、それは今までに見てきた標準的な木製でした。もしや大津市と同じようなものが出現するのでは、という期待は見事に砕け散りました。

また、住所表記は、琺瑯製が「佛光寺通烏丸東入下ル匂天神町」と辻子の北側からなのに対し、木製は「髙辻通烏丸東入上ル匂天神町」と南側から導いていました。琺瑯製と全く同じ表記だとばかり思っていたのに意外な結果でした。でも、全く同じポイントでもこのように表現が違っても構わないというのが京都の住所の面白いところです。

そして、なぜ木製は上下逆さまだったのか?
琺瑯製を設置しようとしたところ、そこに木製があり、職人さんがちょっと手を抜いて琺瑯製をそのまま上から貼っただけ、というぐらいにしか考えていませんでした。しかし、上下逆さまで出現したとなると、そうではなく、一旦取り外して単に下地に再利用しただけとも受け取れます。四辺の額縁のうち、上下二箇所が欠けているのは、下地として利用するには邪魔だったからと考えれば理にかないます。

次に、額縁の色です。
確かに見込んだ通り、明らかに青色の部分がありました。でも、従来の木製の特徴である赤色も一部残っていたのです。次の写真、木製の額縁側面に赤色が明らかに確認できます。

匂天神町の”かぶせ仁丹”

いったい、これはどう解釈するべきなのでしょうか?


つぶさに観察すると、青色は次の写真の黄色い四角の部分で確認できました。

匂天神町の”かぶせ仁丹”

これは、周囲の額縁全体を青に塗ったと考えるのが自然かと思います。考えてみれば、琺瑯製が設置されたのは昭和3年、木製が設置されたのは現時点では明治45年が濃厚です。となると琺瑯製を設置しようとした時、そこにあった木製は設置後16年程度です。となれば額縁の赤色はそこそこ鮮やかに残っていたのではないでしょうか。それを下地にするなら、琺瑯製の青のラインに隣接して赤のラインがあることになります。それはいささか見苦しいとなり、木製の額縁も青に塗った。
これは全くの想像ですが、だとすると、赤色と青色の存在は説明が付きます。

では、なぜそこまでして木製を下地にしたのでしょうか?
設置個所を眺めると、柱の横巾は琺瑯製より少し狭いようです。琺瑯製だけを貼ろうとすると側面の釘穴が使いにくかったかもしれません。だから木製を下地にしたのでしょうか?
でも、現実は上下の2カ所の釘で木製もろとも柱に設置されていました。ならば、琺瑯製だけでも上下2箇所で固定できたはずです。さらに琺瑯製は山上げ(蒲鉾状)に加工されているので、側面の釘穴から内向きに釘を打ち込むことも可能だったのではと考えられます。木製を下地にする必要性は少ないような気もします。
また、琺瑯製が柱からはみ出しているケースは他にも見られますが、特に下地がある訳でもありません。

もはや妄想ばかり。謎が謎を呼ぶ展開になってしまいました。

匂天神町の”かぶせ仁丹”

以上、解けた謎もあれば、新たな謎も生まれた調査結果です。

いずれにせよ、およそ100年近くもの長きにわたり、琺瑯製は木製を劣化から守ってきました。おかげで、住所表記や商標は鮮やかに残されていました。そして、木製には必ずある例の意味不明の記号も明確に出現しました。今回は、菱形に漢数字の「六」と「七」でした。

匂天神町の”かぶせ仁丹”

このようにして、現役の仁丹町名表示板を取り外して調べさせてもらうという、当会始まって以来の一大プロジェクトを無事に終え、“原状復帰”させていただきました。木製は元のとおりに上下逆さまで。

~京都仁丹樂會~



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Posted by 京都仁丹樂會 at 12:41│Comments(0)トピックニュース基礎研究
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