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2017年07月11日

仁丹樂會 大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(4)

~ 加茂町とともに生きる工場 ~


1917(大正6)年2月、仁丹第二工場は瓶原村井平尾で操業を開始しました。

井平尾の第二工場の全景*1

*樹木の成長、増改築などから昭和期の工場の模様


仁丹の原料生産実績は、操業翌年にはすでに年産16万トンレベルに達していました。

大正期の生産は一部「毒滅」の原料生産も入り混ぜておよそ年12万〜16万トン、日産では360~500トン。男子16~19人で操業する工場としては、かなりの生産能力を保持していたようです(『瓶原村文書』)。
昭和初期の仁丹粉末製造量*2は、大正期の半分程度に減少しています。
昭和5年 12,466貫(4万6700トン)
昭和7年 8,601貫(3万2300トン)
昭和13年 24,703貫(9万2600トン)
*2 『瓶原村統計要覧簿』より

この昭和13年当時の瓶原村の産業別生産額構成*2を見ると、農産物48.1%、工産物44.2%であり、隣村の当尾村がそれぞれ90.1%、1.5%に比して、際立って工産物の生産割合が高く、工業村としての瓶原村を特色づけるものです。

ちなみに、この工産物44.2%のうち、10.3%が仁丹粉末であり、森下1社で瓶原村の工産物の生産価額の比重を高めていたことがうかがわれます。
こうして製造された原料粉末は、大阪の第一工場にトラック輸送されました。


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太平洋戦争の戦局がしだいに悪化していく中、学童疎開に関して仁丹のエピソードを一つ。昭和20年3月、京都市伏見区の砂川国民学校と左京区の第四錦林国民学校の学童(第一次に83名、第二次に98名)が、加茂町、瓶原村、当尾村に集団疎開しました(『加茂小学校沿革史』、『恭仁小学校沿革史』、『第四錦林小学校沿革史』)。このときの瓶原村に疎開した砂川校の寮舎の献立をみると、

(昭和20年4月「学童集団疎開ノ綴」(『瓶原村文書』)より

まさに一汁一菜で、動物性たんぱく質は週一回の魚のみ。主食は少しの麦飯で、疎開児童に対する特別配給がなされていたものの十分ではなく、児童は常にお腹をすかしていました。そのときに、「仁丹などの薬まで食べた」といいます。仁丹が薬でなく、なんと子どものお腹の足しに使われたという悲しい時代を、第二工場に働く人たちはどのように思ったのでしょうか。 


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終戦から8年経った夏。戦禍を潜り抜けてきた第二工場に最大の苦難が訪れます。昭和28年8月14日夜、雷をともなった豪雨が南山城地方を襲いました。和束川上流で400ミリを越える豪雨が降り、和束川流域の土々平では上流集落から流れでた土砂と川の泥流によって、川と耕地の境目がなくなり、府道の不動橋も流出しました。

上:水没する船屋付近 下:西の集落



同時に下流の井平尾の第二工場が激しい濁流によって、岩盤ごとえぐりとられて建物の大半が倒壊。和束川に架けられていた鋼鉄製の仁丹橋は飴のように曲がりました。やや下流にあった国道163号線の菜切橋も流されました(八月災)。

和束川に崩落する第二工場


さらに、災害復旧の最中、9月25日の台風13号で山城地区に再び水害が到来。八月災より被害は少ないものの、二カ月もたたない二度目の被害に住民は二重の苦痛を味わうことになりました(九月災。『加茂町文書』)。和束川は山地から木津川までの距離が短く、しかも山が急であるので、山林から土砂が流出しやすい状況にあったことと、明治初期以来、頻繁に近代砂防工事がおこなわれ、山林の保護に尽力されたものの、太平洋戦争中に山林が乱伐され、この山林の荒廃が水害をここまで深刻にさせた遠因だったようです。



災害復旧には、流出家屋の罹災者に住宅を確保するため、京都府は災害府営住宅の建設に着手し、加茂町には10戸が割り当てられました(『京都新聞』昭28・10・28)。このうち、社宅を失った第二工場従業員5世帯が「昭和二十八年府営災害住宅管理の特例」にもとづく加茂町長の推薦によって特別入居しました(『加茂町文書』)。



この八月災と九月災を合わせた昭和28年南山城水害を、地元の方は「二十八災(にじゅうはちさい)」と呼び、教訓として今日まで語り継がれています。


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昭和30年頃には新しい工場、橋、堰の形ができてきました。再建にあたっては、当時の森下仁丹は大企業であるのと、村が誘致した企業が罹災したことから、府や国からも相応の補助が出た模様です。昭和32年頃には、被災前を上回る生産体制を確保しました。昭和38年頃になると、原料粉末の生産拠点としての役目はほぼ終えていた模様で、それ以降は、倉庫、原材料の保管場所として、細々と操業していたようです。やがて、昭和50年の大阪玉造工場の新装完成により、第二工場は閉鎖されました。現在も工場跡地は森下仁丹が所有し、草刈などの手入れはされていますが、仁丹橋の老朽化などもあって、今では橋の入口付近で門扉を閉ざし、ひっそりと佇んでいます。
参考文献: 『加茂町史 第一巻〜第五巻』




さて、次回は、いよいよ、奈良仁丹の探検記です。お楽しみに!
masajin
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 13:18Comments(0)基礎講座仁丹に見る近代史基礎研究

2017年06月24日

仁丹樂會 大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(3)

~ 加茂町に仁丹がきた ~

 加茂町の井平尾付近の風景がわかったところで、本題の「どうしてこの場所に工場を建てることになったのか」というお話しに入りましょう。今回の主役は森下博薬房の森下博社長と加茂村の土橋芳太郎村長の二人です。

 森下博薬房では、1908(明治41)年に大阪市玉堀町に第一製薬場を建設し、仁丹の一貫生産をおこなっていましたが、原料の製粉を担当する専用工場の必要に迫られていました。明治末~大正初めにかけて工業化が急速に進み、電気や蒸気機関を利用した動力が台頭してきましたが、設備・維持費はまだまだ高価なもので、新工場の主目的が「粉ひき」ということもあり、森下は水力による低コストの動力源を府内外に求めていたようです。
 一方、加茂町には、酒造業を営みながら1907(明治40)年9月から1915(大正4)年9月まで京都府会議員を務めた土橋芳太郎がいました(『京都府會史 大正時代資料』)。土橋は、府会の実力者で、決算調査委員長などに就き、殖産や数理に明るく、また、木津川の改修工事、恭仁大橋や笠置橋の架橋、久世橋の堤防修築などを指揮し、いわば河川利用のプロでもありました(『京都府議会歴代議員録』)。森下が製粉工場の用地を模索していた明治末~大正初期は、加茂町では郡是製糸の木津進出など、町域内産物に原材料を求めた各種の会社・工場がつぎつぎに創設された産業発展の萌芽期でもありました。同時に、鉄道の開業とともに、貨物保管および運送業、運輸会社の設立も相次ぎ、大阪から見て、加茂地区はもはや商圏内となっていたようです。

明治~大正期創立の会社・工場(加茂村)
  酒造業で土橋芳太郎の名前が・・・・


明治~大正期創立の会社・工場(瓶原村)
   森下第二製薬場で森下博の記載が・・・・

(各村『現勢調査簿』、『統計調査』、『京都府勧業統計報告』、『京都府統計書』より)


 この時代、府会実力者の土橋と、経済界の名士であった森下が、役職上で何らかの接触の機会があり、水利を求める森下の土地探し相談に、水利専門家の土橋が「それなら、我が地元にいいところがある」と、紹介を兼ねた誘致を進めたという場面が想像されます。このあたりのいきさつは、京都府立山城郷土資料館(ふるさとミュージアム山城)の田中淳一郎さんと木津川市教育委員会文化財保護課の芝野康之さんのお話を参考にさせていただきました。ありがとうございました。

山城郷土資料館 / 木津川市役所


 製粉用のタービンには大きな水力が必要ですが、木津川では水運や川幅の問題で堰造成が難しく、その点、木津川沿いの自然堤防の微高地であった瓶原地区には、距離が短いが水量豊富な川がいくつかあり、その中でも比較的流れの大きな和束川に白羽の矢が立てられたのでしょう。ただ、和束川といっても、井平尾より上流ではすぐに隣村の和束村(現在の京都府相楽郡和束町)に入るので、土橋としてはぎりぎり出自の加茂町側にせざるを得なかったのでしょう。それが現在の第二工場跡地です。

木津川側から微高地の瓶原方面をのぞむ


 土橋は、大正4年9月には府会議員を退いていますが、森下との話し合いから工場建設に至るまでの時期は現職府議として誘致に介入し、また、退任翌年の1916(大正5)年8月から1919(大正8)年1月までは加茂村長に就任していることから、1917(大正6)年2月の操業からフル生産に乗る時期の第二工場には行政責任者として関与をし続けたことでしょう。
 このように、井平尾での第二工場の建設は加茂町サイドの強い誘致によるものでしたので、誘致条件としてはかなり森下に有利なものであったことが想像されます。
 次回は、操業を始めた第二工場の生産の様子や最大の危機であった大水害、さらに加茂町との共生についてみていきましょう。
参考文献:『加茂町史 第一巻~第五巻』

masajin

  

Posted by 京都仁丹樂會 at 15:56Comments(0)基礎講座仁丹に見る近代史

2011年07月22日

仁丹町名表示板 「基礎講座」開講にあたって



最近注目度アップの仁丹町名表示板、そして秘められた多くの謎。
昔からその魅力に取り付かれ、研究の域にまで達している人も少なくありません。

そんな仁丹町名表示板について、様々な角度から語り合い、少しずつ真実に近づけていけたらいいなぁというのが当ブログの思いのひとつです。

でも、いきなりディープな話題に入るその前に、先ずは基本を押さえておきましょう。
何かの縁でこのブログに辿り着かれた方々のため、
つい最近、興味を持ち始められた方々のため、
「仁丹」そのものを知らない若い方々のため、
京都以外にお住まいの方々のため、
ディープな話題でも語り合えるよう、先ずは予備知識をまとめてみました。
達人の方々にも再確認という意味で意義あることと考えます。

ということで、「基礎講座」と銘打ってしばらく続けさせていただきます。
極力、推理や感想を廃して事実のみをまとめてみましたので、それらに対するみなさまの推理などを各項目でコメントしていただければ幸いです。





仁丹町名表示板 「基礎講座」 index  ~日々記事更新してゆきます~

 ◆序、 仁丹町名表示板「基礎講座」  開講にあたって
 
 ◆一、 予備知識
   ①「仁丹町名表示板」とは
   ②そもそも「仁丹」とは
   ③「森下仁丹株式会社」とは
 
 ◆二、 実例
   ①京都市以外の仁丹町名表示板
   ②仁丹町名表示板  大津市の場合
   ③仁丹町名表示板  大阪市の場合
   ④仁丹町名表示板  奈良市の場合
   ⑤仁丹町名表示板  伏見市の場合
   ⑥仁丹町名表示板  実例のまとめ

  以下、続々連載中


  


Posted by 京都仁丹樂會 at 07:20Comments(0)基礎講座