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2024年03月14日

匂天神町の”かぶせ仁丹”

「京都を歩けば『仁丹』にあたる」の第2章冒頭に、「ドキドキの『かぶせ仁丹』開封」と言う記事があります。木製の仁丹町名表示板の上に、琺瑯製の仁丹町名表示板が被さって貼られているのではないかと推察していたのを、実際に外して確かめてみたというお話しです。2年と半年ほど前のことでした。

実は過去の写真の中にも同様のケースが複数見られます。その時はそこまで気付かず、すでに確認できなくなってしまいましたが、四条烏丸の近くにある匂天神町では、この形で現役なのです。


いかがでしょう? 琺瑯製の両端から木製の額縁らしきものが見えているのが分るでしょうか?
縦の長さは両者とも同じ約91cm、横は木製が約18cm、琺瑯製が約15cmなので、木製の上から琺瑯製を貼ると少しばかり横がはみ出すというわけです。

もし、本当に木製が隠れていれば、その住所表記は琺瑯製と同じ「佛光寺通烏丸東入下ル匂天神町」で、前例から通り名は2行書き、町名は大きく書かれ、商標は明治期のものとなるはずです。疑う余地など持っていませんでした。いつかそれを確認できる日があればいいな、というぐらいにしか考えていませんでした。

ところが、俄然、確かめてみたいという事情ができました。
見た目ではなかなか分からないのですが、デジカメで撮った写真をパソコンで拡大して眺めていたところ、非常に興味深いことを発見したのです。


写真の黄色い丸の部分、はみ出した木製の額縁ですが、「青色」に見えるのです。
今まで確認してきた木製はいずれも「赤色」でした。もちろんほとんどの場合、退色してしまって確認しづらくなってはいますが。

そして、一方で、大津市に現存する木製は額縁が青色なのです。


(大津の木製については、2016年03月29日の記事、
全国津々浦々の考証(その9)~大津でも木製仁丹発見!!②~
 に詳しく記しています)


大津で使われている商標は、京都の琺瑯製と同じく、社史によるところの昭和2年とされるものです。すなわち、その配色や商標が京都の琺瑯製と同じだったのです。この事実を知った後に、匂天神町の青色に気付いたというわけです。

もしかして、この匂天神町の木製は、琺瑯製が本格的に量産されるにあたっての試作品のような位置付けではなかったのだろうか! そのように考えるに至りました。

もしそうであれば、 京都の木製➡大津の木製➡京都の琺瑯製 という流れを証明できる大発見となります。これはどうしても確認したいとなりました。

そこで、設置されている家の方に事情を説明し、ご協力を得ることができたのでした。本当に感謝です。


2021年9月17日、遂にその日がやって来ました。朝から小雨がぱらついていましたが、予定どおり、当会会員が大屋根にまで届く長いハシゴを運び込み、家を傷つけないように慎重に取り外し作業を行ったのです。


当初は上の琺瑯製だけを外して、そのまま下の木製を確認および記録するだけの計画でしたが、2 枚合わせて上下 2 箇所で釘付けされていたので、2 枚まとめて取り外すことになりました。そして、地上に降ろして、安全に確認します。

次の写真は、木製に貼り付いた琺瑯製を取り外しているところです。


琺瑯製は釘穴が上下各1箇所、左右に2箇所ずつあり、残りの左右の釘をペンチでひとつひとつ外していきました。

そして、いよいよその下に何が隠れているのか、判明する時が来ました。
これが、その瞬間です!


いくつもの情報が、そして驚きが、同時に目に飛び込んできました。

やはり木製!

でも、上下逆さま! なんで?

大津のようなものではなかった!

商標は明治期!

額縁の色は、確かに青!

しかし、赤い部分もある!

そして、住所は琺瑯製とちゃう!




これら、同時に飛び込んだ情報の整理に頭はフル回転しました。


結果として、やはり琺瑯製の下には木製が隠れていました。そして、それは今までに見てきた標準的な木製でした。もしや大津市と同じようなものが出現するのでは、という期待は見事に砕け散りました。

また、住所表記は、琺瑯製が「佛光寺通烏丸東入下ル匂天神町」と辻子の北側からなのに対し、木製は「髙辻通烏丸東入上ル匂天神町」と南側から導いていました。琺瑯製と全く同じ表記だとばかり思っていたのに意外な結果でした。でも、全く同じポイントでもこのように表現が違っても構わないというのが京都の住所の面白いところです。

そして、なぜ木製は上下逆さまだったのか?
琺瑯製を設置しようとしたところ、そこに木製があり、職人さんがちょっと手を抜いて琺瑯製をそのまま上から貼っただけ、というぐらいにしか考えていませんでした。しかし、上下逆さまで出現したとなると、そうではなく、一旦取り外して単に下地に再利用しただけとも受け取れます。四辺の額縁のうち、上下二箇所が欠けているのは、下地として利用するには邪魔だったからと考えれば理にかないます。

次に、額縁の色です。
確かに見込んだ通り、明らかに青色の部分がありました。でも、従来の木製の特徴である赤色も一部残っていたのです。次の写真、木製の額縁側面に赤色が明らかに確認できます。


いったい、これはどう解釈するべきなのでしょうか?


つぶさに観察すると、青色は次の写真の黄色い四角の部分で確認できました。


これは、周囲の額縁全体を青に塗ったと考えるのが自然かと思います。考えてみれば、琺瑯製が設置されたのは昭和3年、木製が設置されたのは現時点では明治45年が濃厚です。となると琺瑯製を設置しようとした時、そこにあった木製は設置後16年程度です。となれば額縁の赤色はそこそこ鮮やかに残っていたのではないでしょうか。それを下地にするなら、琺瑯製の青のラインに隣接して赤のラインがあることになります。それはいささか見苦しいとなり、木製の額縁も青に塗った。
これは全くの想像ですが、だとすると、赤色と青色の存在は説明が付きます。

では、なぜそこまでして木製を下地にしたのでしょうか?
設置個所を眺めると、柱の横巾は琺瑯製より少し狭いようです。琺瑯製だけを貼ろうとすると側面の釘穴が使いにくかったかもしれません。だから木製を下地にしたのでしょうか?
でも、現実は上下の2カ所の釘で木製もろとも柱に設置されていました。ならば、琺瑯製だけでも上下2箇所で固定できたはずです。さらに琺瑯製は山上げ(蒲鉾状)に加工されているので、側面の釘穴から内向きに釘を打ち込むことも可能だったのではと考えられます。木製を下地にする必要性は少ないような気もします。
また、琺瑯製が柱からはみ出しているケースは他にも見られますが、特に下地がある訳でもありません。

もはや妄想ばかり。謎が謎を呼ぶ展開になってしまいました。


以上、解けた謎もあれば、新たな謎も生まれた調査結果です。

いずれにせよ、およそ100年近くもの長きにわたり、琺瑯製は木製を劣化から守ってきました。おかげで、住所表記や商標は鮮やかに残されていました。そして、木製には必ずある例の意味不明の記号も明確に出現しました。今回は、菱形に漢数字の「六」と「七」でした。


このようにして、現役の仁丹町名表示板を取り外して調べさせてもらうという、当会始まって以来の一大プロジェクトを無事に終え、“原状復帰”させていただきました。木製は元のとおりに上下逆さまで。

~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:41Comments(0)基礎研究

2023年05月12日

出現する史料 ~他都市編~

引き続き、国立国会図書館デジタルコレクション関連です。
調査対象はあくまでも京都市における仁丹町名表示板なのですが、調べている過程で、他都市の町名表示板のことも検索に掛かることもあります。興味深いものを2,3ご紹介しましょう。


昭和33年 『高田市史』第2巻


高田市史編集委員会 編『高田市史』第2巻,高田市,1958. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3002421 (参照 2023-03-12)

昭和33年に発行された「高田市史」です。このP.176「第三章 恐慌期 第一節 市政」に次のような記述があります。

『実施期日は昭和5年4月1日の年度がわりとし、準備を進めるとともに、新旧対照地図と一覧表(別表)を各戸に配り、また売薬「救命丸」本舗寄贈による町名札と境界札を市内1,500カ所にはりつけた。4月1日には予定通り実施され、102町81区の行政区は、16町49丁となり、48の行政区に改められた。』

あれ?と思いました。救命丸? 酒だったはずなのに・・・
読み進むうちに違和感が次第に大きくなり、早とちりをしていることに気付きました。てっきり奈良県の大和高田市だとばかり思い込んでいたのです。なぜならば、大和高田市には次のような琺瑯製の町名表示板があったからです。



しかし、この資料の「高田市」とは新潟県の「えちごトキめき鉄道」(旧信越本線)の高田駅付近にあった高田市だったのです。現在は、直江津市と合併して「上越市」となっています。

ところで、“売薬「救命丸」本舗寄贈による町名札と境界札を市内1,500カ所にはりつけた”とあります。救命丸を発売する宇津救命丸株式会社の本拠地は栃木県の宇都宮市の近くにあり、創業はなんと慶長2年(1597年)だそうです。町名札を設置したのが昭和5年となると、仁丹が京都市で琺瑯製を設置した後で、伏見市でも設置をしようかという頃なので、この高田市の場合も琺瑯製だったに違いないでしょう。また、仁丹を見習ったのではないでしょうか? そして、「境界札」なるフレーズが出てきました。京都でも四辻と町界に仁丹があります。京都の場合は特に区別はありませんでしたが、高田市の町名札と境界札は同じものなか、それとも別の書式だったのか、大いに気になる所です。

新潟県の高田は古い街並みの残る城下町です。何も知らずに3年前に訪れたことがありました。確かに、雁木や疑洋風建築の残る興味深い町並みでした。1,500枚設置されたのであれば、今も残っていても不思議ではありません。しかも琺瑯製であればなおさらです。改めて訪れる目的ができました。

↓ 雁木



↓ 疑洋風建築



↓ 昭和レトロ感満載の町並み



↓ 映画館「高田世界館」



↓ 「高田世界館」内部





昭和23年 『市民とともに10年』


『市民とともに10年』,大阪市公聴課,1958. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3030482 (参照 2023-03-13)

昭和33年3月に発行された大阪市の冊子です。戦後10年間の市政などがまとめられており、巻末の年表の昭和23年3月に『町名表示板16,000枚の寄贈受理』とあるではないですか。

大阪市にはご存じのように琺瑯製の仁丹町名表示板が存在します。それに違いないとは思うのですが、この資料では仁丹なるフレーズはどこにも出てきません。また、大阪の仁丹にはその下に次のようなプレートが設置されています。当会会員、ゆりかもめさんが発見されました。


昭和23年1月と昭和26年3月と3年以上の開きがあります。これをどのように解釈するか、引き続き探究が必要なようです。


昭和33年 『経営とPR』


福西勝郎 著『経営とPR』,日刊工業新聞社,1958. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3019227 (参照 2023-03-08)

第1部 「経営にPRは最も大切なものである」の項目の中のP.34に次のような記述があります。

『口中清涼剤で有名な仁丹が明治13年当時からやっていたと思われる次のことである。日本の主要な都市に”何町何番地”という同一規格の金属ホーロ引板の町名札が掲げられていた時代がかなり長く続いた。幅13.5センチ、長さ50センチ、色はあい色、文字は白く抜かれ下端部に太いひげをはやし、大礼服を着た男の胸から上の像で表せられている。この古風な画像は、例の”仁丹”の商標で、だから、この町名札は仁丹の宣伝として見られていたのはではなかろうか。仁丹そのものの効能等は少しも謳わず、もっぱら一般人の便宜を図った点で、筆者は日本にも明治時代の初期の頃からこのようにすぐれたしかも典型的なPRが存在していたことに感激を覚えるのである。』

明らかにいくつかの情報がごちゃ混ぜになって、誤った解釈へとミスリードされたようです。先ず”明治13年当時”ですが、仁丹のあの髭の商標が誕生する25年も前になります。森下博氏が5歳の時です。また、琺瑯看板はまだまだ誕生していません。

しかし、非常に気になるのが、“同一規格の金属ホーロ引板、幅13.5センチ、長さ50センチ、色はあい色、文字は白く抜かれ”なる記述です。

今までに確認されている琺瑯製の仁丹町名表示板は次のようなものです。
京都市 幅15センチ、長さ91センチ 白地に黒い文字
伏見市 幅12センチ、長さ60センチ 白地に青い文字
大阪市 幅12センチ、長さ76センチ 白地に黒い文字
奈良市 幅12センチ、長さ60センチ 白地に黒い文字
大津市 幅15センチ、長さ76センチ 白地に黒い文字
八尾市 幅50センチ、長さ20センチ 緑地に白い文字
いずれにも当てはまりません。強いて言えば伏見市と奈良市の大きさが最もそれに近いぐらいです。配色も一致するものはありません。

この記述は仁丹に関しては間違いですが、どこかに13.5センチ×50センチの藍色に白文字の琺瑯製町名表示板が大量にあったことを示唆しているようにも思います。




国立国会図書館デジタルコレクションは今後もさらに充実していく様子です。そして、探索も続いていきます。以上はその中間報告第1弾でした。
~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 10:48Comments(0)基礎研究

2021年02月28日

舞鶴からも出現!

昨年6月のことでした。
とある方から舞鶴にも仁丹町名表示板はあったのか?という質問というか情報が寄せられました。なんでも戦前の絵葉書に「もしかして仁丹?」と思しきものが写りこんでいるというのです。絵葉書のキャプションには“新舞鶴 三條通”とあるとのこと。

「そんなはずはない、仁丹はない」とすぐに回答しました。
なぜなら「新舞鶴」は町だったからです。

東舞鶴、西舞鶴、そして中舞鶴はよく耳にしますが、新舞鶴は知りませんでした。調べてみると、簡単に言えば東舞鶴の旧名というべきものでした。城下町である西舞鶴エリアはすでに栄えていましたが、明治になって舞鶴鎮守府ができ、そのために造られた市街地が今で言うところの東舞鶴エリアで、一時期ではあるものの「新舞鶴町」が存在していたのです。

いくら“全国津々浦々”と言っても町や村のレベルにまで設置していなかったであろうと決め込んでいました。それまで市レベルにしかその存在が確認されていなかったからです。

この“全国津々浦々”とは、1995年発行の森下仁丹100周年記念誌にある『当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり』に使われているフレーズです。

当ブログでは2015年3月から1年にわたり計9回、「全国津々浦々の考証」と題してこのフレーズについて検証してきました。結果、琺瑯製の仁丹町名表示板は京都市、伏見市、大阪市、奈良市、大津市、八尾市、そして木製では京都市、東京市、大津市に存在していたことを報告しました。当初今ひとつ疑問に思っていた“全国津々浦々”ですが、東京や大津から木製が発見されたことにより、まんざら誇張された表現ではないのかもと信ぴょう性を帯びてきたのです。

ただし、上記の都市はいずれも市です。
また、京都府紀伊郡伏見町が昭和4年に伏見市に昇格するやいなや、「伏見市」なる仁丹町名表示板が設置されたことも、やはり市レベルが条件なのだという思いを強くしました。

しかし、気になります。
絵葉書に残るぐらいならば地元へ行けば何か分かるのではないかと、すぐに舞鶴市郷土資料館へ赴きました。そして、絵葉書や古写真などを拝見するとともに学芸員の方にお聞きしたのですが、残念ながら、町名表示板としての仁丹の情報は皆無でした。

となればもはや当該の絵葉書を入手して確認するしかありません。
それがこれです。



背後が山なので、三条通と大門(おおもん)通との交差点から駅に向かって写しています。仁丹らしきモノ、どこにあるかおわかりでしょうか?
左手前の家屋の2階です。確かに京都の木製仁丹のようなモノが写っています。
その部分をスキャンすると次のようになりました。



現物の絵葉書ならば明確に判読できるものと期待していたのですが、表面の劣化もあってせいぜいこの程度の解像度です。商標の髭のお顔は不鮮明ですが、胴体部分の「仁丹」なる2文字はぎりぎり読み取れそうです。ならばその上のスペースは髭のお顔なのか? そう思って見るとそのようにも見えてきます。「大門通三條」は明らかです。そして、その下は「西入」と「東入」とが並列して書かれているように見えます。

そのようなことで、見れば見るほどに次のようなイメージが出来上がってくるのです。



赤い枠は京都に倣い、商標も京都の木製から貼り付けてみました。

当會のメンバーとも慎重に検討した結果、これはやはり木製の仁丹町名表示板であると認めざるを得ないとの結論に至りました。

絵葉書のキャプションは右下に「(新舞鶴名勝)三條通」、左下に「舞鶴要港司令部検閲済」「舞鶴要塞司令部検閲済」と2行で書かれています。また、絵葉書の裏面は次のようなものでした。



「絵葉書資料館」(https://www.ehagaki.org/)の絵葉書の年代推定方法によると、宛名と通信文のエリアが1/2に区切られ、「郵便はかき」(「郵便はがき」ではない)となっているタイプは大正7年~昭和7年の間とされています。




新舞鶴町の話しに戻ります。
「舞鶴市史 通史編 上」(舞鶴市史編さん委員会1993年)を参考にすると、当該の地域はそもそも京都府加佐郡倉梯(くらはし)村の浜地区という水田地帯だったところで、明治34年に舞鶴鎮守府が開庁、浜地区が大規模な埋め立てで市街地化され、明治37年には鉄道が福知山から延びてきて駅前通りである三条通が商業の中心地になったとあります。

現在、東舞鶴駅から北側、つまり舞鶴湾に向けては通りが京都のように整然と碁盤の目のように配置されています。そして、西から東に順に一条通から九条通が縦に配置されています。京都は横ですが舞鶴は縦なのです。また、横の通りは三笠通、初瀬通、武蔵通などと戦艦の名称になっていることは有名です。浜地区の地盤整備が完成した明治35年にこのように命名されたと先の資料にありました。

その後、市街地として発展した浜地区は、明治39年7月1日に「新舞鶴町」に、昭和13年8月1日に「東舞鶴市」にと昇格していきます。さらにその2年後には、西舞鶴エリアの「舞鶴市」と合併して大きくなった「舞鶴市」の一部となりました。したがって、「新舞鶴町」が存在した期間は明治39年7月1日~昭和13年7月31日までとなり、先ほどの絵葉書の年代推定期間はこの間にすっぽりと収まります。

また、国際日本文化研究センターの所蔵地図データベースにある「新舞鶴市街地圖」(大正11年)では当時の様子を知ることができます。絵葉書の仁丹町名表示板の横にある看板「軍港市街雑貨商の開祖 矢野商店」の店舗も地図で確認できます。家屋がまだまばらだった時代なので、なるほど“開祖”が頷けます。地図の裏面には新舞鶴町の起源も詳しく解説されています。

しかし、月日が経って戦争に突入、昭和20年4月には建物疎開がこの三条通に適用され、東側の家屋がすべて撤去の対象となってしまったのです。「舞鶴市史 通史編 下」には次のような疎開後の写真が掲載されています。



絵葉書と同じ撮影ポイントなのかどうかは分かりませんが、背景が山なのでアングルは同じです。そして東側に建ち並んでいた家屋が一斉に撤去されている無残な様子が写しこまれています。この時、仁丹町名表示板も矢野商店とともに姿を消したことになります。

さらに戦後は都市計画により、三条通がもっと拡幅されました。この時も東側が対象となり、建物疎開で家屋を失った方々は残りの土地まで取られてしまい、その悲痛な声が「舞鶴市史 通史編 下」に紹介されていました。現在、東舞鶴駅を降り立つと、正面に4車線の広い三条通がメインストリートとして延びていますが、このような経過があったというわけです。



ところで、新舞鶴町にも仁丹町名表示板が設置されていたという事実をどう捉えるべきでしょうか? 町レベルとしては初見です。

私たちは京都の辻々にある仁丹町名表示板に興味を持ち、ここまで調べてきました。京都市の場合はその住所表現の特異性から相当濃密度に設置されました。この密度でもって全国津々浦々なんて、とても無理だと思い込んでいました。

でも、町名表示板といっても広告です。何も京都のように律儀に徹底しなくても、広告として効果の高い箇所にのみぽつりぽつりと付けてもいいはずです。それならば全国津々浦々という表現もできたかもしれません。

しかも、木製であれば今なお現役で残っていることは難しいでしょう。仮に残っていても色褪せてただの木片にしか見えないでしょう。また、カメラが普及していない時代です。写真なら絵葉書はありますが、広告物取締法で屋外広告が許されない名勝が中心です。通常の街なかの光景が絵葉書になるなどまずないことでしょう。

つまり、仮に全国津々浦々という表現が許される程度の設置があったとしても、今の私たちが確認することは非常に困難であるということなのです。現物が残っていないから、写真がないから、と言って社史にある“全国津々浦々”を全否定することはできないことに気づきました。

以上のことから、私見ではありますが、新舞鶴町はたとえ町レベルであっても軍港として大いに栄えていたため、広告をする価値大いにありと考えたのではないでしょうか?
この絵葉書は通常の町並みのものではりますが、“司令部検閲済”とあるように機密のエリアではあるものの、新しく出現した市街地として名勝扱いにされたのでしょう。
さらに、京都と同じように通りが碁盤の目になっていることも注目です。京都での実績を持ち込んでということも、“大門通三條 東入 西入”なる表現から連想したりしています。
この界隈の住所は、舞鶴市浜〇〇番地が正式なようですが、店舗のアクセス方法としては京都風に通り名を使っているケースも散見されます。


最後に、舞鶴にあるのであれば、呉や佐世保にもあるのではないか?と誰しも考えるでしょう。舞鶴市郷土資料館でもそのように言われました。そこで、ついでがあったので、呉には訪れて挑戦してみましたが、収穫は残念ながらありませんでした。しかし、だからと言って存在しなかったことにはなりません。社史にあってまだ木製仁丹の存在が確認できていない大阪や名古屋を筆頭に、まだまだ全国津々浦々の時空間の旅が続きそうです。

~shimo-chan~
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 18:40Comments(2)基礎研究

2016年05月14日

仁丹町名表示板 京都だけなぜ? ~後編~

仁丹町名表示板 京都だけなぜ?

~後編~


京都市の仁丹

前編では各都市の町名部分の凹凸状況をご紹介しましたが、いよいよ我々のメインテーマである京都市の特徴です。見れば見るほどに、いくつもの特徴、新たな疑問が生まれます。




<なぜ? 1> 住所表記に凹凸なし

見た感じでも分かるのですが、住所の黒い文字部分に手を添えても、凹凸は全く感じません。手に触れられるものは極力確かめましたが、感覚的に“高低差”はゼロなのです。この点が他都市のものと歴然とした違いなのです。



ちなみに、凹凸のみならず、触っても“ここからが文字だ”というような明確な感覚の違いを抱くこともまずありませんでした。つまり明らかに摩擦係数が変わるということもないのです。ただ、昭和6年4月に京都市に編入され最初から「左京区」「右京区」の表記となっている“昭和6年組”のひとつ「右京区秋街道町区域」は高低差は感じないものの、まるでサンドペーパーでも触っているかのようにザラザラとしました。もしや“昭和6年組”の特徴かと興味を持ちましたが、その他のものも触った結果、そうでもありませんでした。



また、商標の部分は、他都市と同様に白をベースとして青色・赤色がふっくらと盛り上がっていて、型にそれぞれの色の釉薬を流し込んだのであろうことが伺えます。



京都市の琺瑯製仁丹町名表示板の“高低差”をまとめると、感覚的には青・赤>白・黒 となりますが、次のような破損部分から覗く“断層”を見ると、先ず鉄板があり、その上に白、そしてその白の上に黒や青や赤があることが分かります。




<なぜ? 2> 書道のような書きっぷり

京都のもうひとつの大きな特徴は住所部分が『手書き』としか見えないことです。型を使っていたとは思えません。書道をしたことのある方なら納得していただけるでしょうが、はね、はらい、筆圧の加減などが書道そのものなのです。



しかも、一息で書いているようです。筆の毛、筆の運びまで分かります。何度も塗りたくったような形跡が見られません。線の重なり具合を見ると、書き順も手書きそのものであることが分かります。



一方、平成の復活バージョン第1号として製作された次の仁丹は住所部分をアップで見ると何度もペンキを塗ることで、遠くから見たら書道風に見えるよう描かれています。



この平成復活バージョンや鞆の浦の仁丹町名表示板を手掛けられた八田看板さんに、以前、じっくりとお話しを伺う機会がありました。

先ず京都の琺瑯製仁丹町名表示板を見て、看板制作の立場からどのような印象をお持ちなのか? また、琺瑯の上から文字がスラスラと弾けることなく書けるものなのか? をお尋ねしたところ、あくまでも現在の技から見てという前置きでしたが、次のような大変興味深いことをお聞きできました。

『手書きであり、筆使いが書道そのもの。看板屋のものではない。そもそも看板屋の筆ではあのようには書けない。書道の乗りでサッと書かれていて全体に流れがある。看板の場合は一字一字が独立していて完璧であるが、仁丹の場合は看板屋ならこうするという箇所が多く、字体や空白のバランスなどに不満を抱く。

平成の復活バージョンは、ペンキに硬化剤を混ぜたもので書いたが、筆と墨の組み合せのように書けるものではない。筆に含まれたペンキがどんどん乾いていき、何度もペンキを含ませなければならなかった。鞆の浦のものは紙に書いた手書きの原稿を撮影して型をとったので琺瑯で処理しているのだろう。現在の合成樹脂のペンキでは直接書くことはできないが、昔は黒鉛と植物性のボイル油を混ぜた二液性の塗料を使っていたらしく、それなら書けるのではないか。』


といったものでした。
ちなみに、鞆の浦の文字部分は次のようになっています。白い部分に黒い文字がベタッと一定の肉厚をもって盛られていることが分かります。前編で見たように黒い文字が白の部分に比べて窪んでいるというパターンの逆です。製作工程が一部違うと言えるのかもしれません。




<なぜ? 3> 輝き、ツヤがない

大津市、奈良市、大阪市の黒い文字部分は光を反射するような輝きがあるのですが、京都市のものは基本的にツヤを感じません。まるでツヤ消しタイプの塗料のようです。琺瑯ならば周囲と同様にもっと輝いてもよさそうに思うのですが。これは釉薬の調合の具合なのでしょうか? サッと書いたがための薄さが原因なのでしょうか? それとも単なる経年による劣化なのでしょうか? いずれにしても京都市の特徴のひとつといえます。


輝きを見せる3都市の文字部分(左より順に大津市、奈良市、大阪市)
   


周囲と比べてツヤを感じない京都市


<なぜ? 4> 濃淡のムラ

さらに一文字一文字を見ていると、一部の個体では、一文字の中でも濃淡にムラがあるものがあります。大津市、奈良市、大阪市のように均一の黒さではないのです。
どうも、筆を止めて抜く箇所で白くなっている傾向が顕著です。これはどのような物理現象なのでしょうか?




<なぜ? 5> 劣化のムラ

90年以上風雨に晒されても丈夫で長持ちと当ブログでも頻繁に言ってはきましたが、確かにほとんどが当てはまるもののごく稀に不思議に劣化したものが見受けられます。

次の仁丹などはまさしく西側半分だけが劣化しているのです。




これ1枚だけなら、西日が原因だと結論付けてしまいそうですが、次の仁丹などは西日が当たる側は劣化せず、逆にそもそも西日が全く当たらない東洞院通側のものがひどく劣化しています。




西日が当たる場所だから、雨がよくかかる場所だから、といわれることもありますが、そのような場所でも美しいものは美しいままですから、どうもそうでもなさそうです。

それどころか、劣化の激しい個体はエリアに関係なく分布しています。



工場でしっかりと琺瑯が焼成されたものとするならば、このような不均一さが不思議でなりません。釉薬の調合に問題があったのでしょうか? 焼成の際の温度や時間に関係しているのでしょうか? 単なる品質管理の問題として片づけられるものなのか、不思議です。

※     ※     ※


黒色で描かれた住所部分も琺瑯である、だから工場で高温で焼成しなければ完成とならない、ということを否定しようとするわけではありませんが、以上の様に、だとすればこれはどう解釈するの?という新たな疑問がいくつか現れました。正直なところどうもすっきりしません。

そもそも、京都市のものだけがなぜ手書きだったのか? なぜ凹凸を感じないのか? すなわち、これらは京都市のものだけが製法が異なっていたということを物語っているのではないのでしょうか? では、なぜなのでしょう? 設置方法を考えるとき、この疑問を解いておきたいところです。

琺瑯看板が普及し始めたのは大正時代の末とされ、京都市の琺瑯製仁丹町名表示板は大正14年~昭和3年頃、伏見市が昭和4年~6年、京都市の市域拡大に伴う“昭和6年組”が昭和6年頃に製作されたと考えられます。そして、戦時中の空白期間を経て、大津市、奈良市、大阪市、八尾市が戦後の全盛期。

こうして順序立てて考えると、現時点で他の例が発見されていないことから、もしかしたら京都市のものは本邦初の琺瑯製町名表示板であった可能性もあります。少なくとも黎明期ではあったでしょう。でも、この時期、すでに右横書きの『たばこ』、鈴木商店時代の『味の素』、コーモリ印の『日本石油』など一般的な琺瑯看板の大量生産はなされており、しかも伏見市が型を使っていることを考えると、京都市においても型を使うという選択肢はあったはずです。にもかかわらず『手書き』となったのはなぜなのでしょうか?



そこで、現時点で分かっていることを組み立てて、次のような空想を楽しみました。もちろん根拠のない全くの想像です。

“琺瑯製町名表示板としての黎明期、とある業者が京都市のものを大量に受注した。しかし、やたらと文字数が多く、フォントの大きさも3、4種類は必要だった。納期もあまり余裕がない。この状況を打開するのが『手書き』だった。従来の木製は手で書いていたのだから、なんだかんだしているよりも手で書けばいいじゃないか、その方が早いじゃないか、と案外あまり悩むこともなく手書き対応となった。”

でも、伏見市は型を使い、その後の“昭和6年組”では再び手書きに戻るという不思議を説明できません。“昭和6年組”は伏見市と同様に数文字の住所表記だからです。京都市は同じ手法で統一という流れだったのか、それとも業者の違いによるものだったのか、これもまた解決したい課題です。そもそも京都市のものがひとつの業者によるものなのか複数の業者によるものなのかも分かっていません。

この空想、今後の新事実判明とともに軌道修正をしながら継続するかもしれませんし、あるいは「なんだ」というような想定外の真相に取って代わられるかもしれません。

※   ※   ※


その昔、琺瑯の釉薬と筆で文字を書く職人さんがいたという話が琺瑯製品に関わる業界の方から出てきました。まだ裏付けは取れていませんが、先輩の技を見て覚えるという職人さんの世界のことなら、記録も残されないまま廃れてしまったが、当時としては当たり前の何らかの技があっても不思議ではありません。

京都市のものだけが持つ前述のような特徴は、何を意味するのか? これらの謎を解くため、今、大正~昭和初期における琺瑯看板の製作技法をはじめとして多方面から調べていますが、なかなか一筋縄ではいきません。

京都仁丹樂會 shimo-chan
  
タグ :琺瑯


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:39Comments(2)永遠のテーマ基礎研究

2016年05月12日

仁丹町名表示板 京都だけなぜ? ~前編~

仁丹町名表示板 京都だけなぜ?

~前編~




このような一般的な琺瑯看板は全く同じものを何枚も製作するわけですから、最も合理的な手順で工場で大量生産され、設置先を求めて全国各地へと送り出されたことでしょう。また、製作枚数や送られたエリアは予算や販売戦略に拠ったことでしょう。

しかし、町名表示板となると、事情はかなり違ってきます。個々に異なる町名を入れなければならない、同じものは何枚も要らない(おそらく一桁?)、設置先は限定、といったほとんど注文生産のような世界のはずです。

琺瑯製の仁丹町名表示板は、京都市の他に伏見市(現在は京都市伏見区)、大津市、奈良市、大阪市、八尾市、そして福山市の鞆の浦にあることが確認されていますが、その住所表記の文字部分は京都市のものだけがなぜか特異なのです。どう見ても手書きであり、しかも凹凸を全く感じないのです。

当ブログの 『コペルニクス的転回となるか!?』 で提言されたとおり、今、「リヤカー説」や「工場説」について改めて考え直さなければなりません。そのためには、京都の琺瑯製仁丹町名表示板がどのような材料で、どのような手順で製作されたかを正確に知っておくことが不可欠でしょう。それはすなわち、設置時期となった大正晩年から昭和初期における琺瑯看板の製作技法を知ることから始まるかと思うのですが、それがなかなか難しそうです。

何はともあれ、先ずは京都市と他都市との違いを明らかにするため、各都市の住所表記の部分を詳細に見ていきましょう。


※     ※     ※


伏見市の仁丹

伏見市とはいっても現在の京都市伏見区の一部のことです。伏見市は昭和4年5月1日に誕生し、昭和6年4月1日に京都市に編入されたのでわずか1年11ケ月だけ存在した市です。したがって、伏見市の仁丹町名表示板はその間に製造され設置されたものとなります。

町名部分を手で触ってみると、白い琺瑯をベースとするならば、青い文字部分はその上にぷくっと盛られた形で膨らんでいます。その様子、斜めからのアングルでお分かりいただけるでしょうか?



ちなみに、商標部分の青色も赤色も同様に白の上にありました。

これら“高低差”の関係は、青・赤>白 といったところです。
この順序は次の写真のように、破損部分から覗く“断層”からも分かります。



ところで、町名部分の毛筆体フォントは型が使われているようです。
次の写真をご覧ください。同じ町名の仁丹とメンソレータムですが、町名の文字が両者全く同一のようです。表示板全体のサイズや造りも酷似しているので、おそらくは同じ業者により製作されたものではないでしょうか?





大津市・奈良市・大阪市の仁丹

次に大津市、奈良市、大阪市の仁丹町名表示板です。いずれも白地に、町名部分は黒い文字で、縁取りも黒です。


左より順に 大津市、奈良市、大阪市


町名部分の様子ですが、周辺の白い部分に比べて明らかに窪んでいるのです。周囲の白い部分よりも1mm程度凹なのです。下の写真からもお分かりいただけるかと思いますが、伏見市の凸とは正反対に、これらの都市では凹となっています。




商標の部分はというと、白をベースにして赤の部分は盛り上がり、「仁丹」なる黒い文字は町名と同じく窪んでいました。




これら大津市、奈良市、大阪市における“高低差”は、赤>白>黒 の関係にありました。


ところで、大津市の「膳所網町」なる町名は昭和26年~39年の期間存在しました。大阪市の「南中道町四丁目」は昭和7年~45年の期間存在しましたが、昭和20年に空襲で罹災した一帯であり、さらに大阪市の他のものには昭和26年と刻印された設置許可のプレートも見られます。また、『日常保健に』や『仁丹歯磨』なるコピーはいずれも左横書きであることから、これらの都市の琺瑯製仁丹町名表示板はいずれも戦後の琺瑯看板全盛期のものと考えてよさそうです。


八尾市の仁丹

当ブログでは初めてとなりますが、一応、八尾市にも仁丹町名表示板があります。ただし、ご覧のとおり、趣きは随分と違います。横500mm縦195mmの横長で、大礼服のあの仁丹の商標はありません。



文字の凹凸は、上部7割程度を占める町名部分については白い文字が緑をベースとしたら窪んでいます。下部3割程度を占める広告コーナーは、白をベースとして緑の文字も赤の文字も凸の状態でした。
つまり全体をとおして白色の上に、緑色と赤色が盛られたようになっており、“高低差”は、緑・赤>白 といったところです。



全ての文字が左横書きであること、そして映画の全盛期を思わせるコピーなどから、当然戦後の製作でしょう。


※     ※     ※


鞆の浦については後編でご紹介しますが、そもそも一般的に琺瑯看板の製作時期については戦前の大正末期~昭和初期、戦後の昭和30年代~40年代に集中します。この両者の間には、戦時中の資材不足などによる長い空白期間があります。

ここでご紹介した仁丹町名表示板は、伏見市は戦前組、大津市・奈良市・大阪市・八尾市は戦後組となります。もちろん京都市も戦前組です。長い空白期間と社会情勢の大きな変化を挟んだ、戦前組と戦後組の製法は全く同じだったのでしょうか? 戦前組の京都市は文字部分がフラット、伏見市は凸、戦後組はすべて凹という特徴は、試行錯誤的な時代と製法が確立した時代の違いを示しているのではないかと考えるようになりました。

それでは、私たちのメインテーマである京都のものはどのような特徴を持っているのでしょうか? 後編で詳しく見て行きたいと思います。

~つづく~

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2016年03月29日

全国津々浦々の考証(その9)

全 国 津 々 浦 々 の 考 証 (その9)
~大津でも木製仁丹発見!!②~


引き続き、大津での新発見についてご報告します。

今回、大津で様々な調査をした結果わかったことの一つは、何と、色使いも鮮明な木製の町名表示板が奇跡的に残されているという情報に接したことでした!なお、近年、物騒な事態が度々起こっておりますため、今回は画像の一部を御紹介させていただくにとどめておきたいと思います。

大きさは縦92cm×横16.5cmで、京都市内の木製及び琺瑯製の町名表示板とほぼ同じですが、横幅は京都の木製・琺瑯のちょうど間くらいといってもいいかもしれません。上部のロゴ、外枠の色はこのようなものでした。



次に示したように、仁丹が発売された明治38年から時代が下っていくにつれ、仁丹の商標は徐々に変化しており、ロゴの大礼服の外交官のデザインが次第に単純化されるとともに、「仁丹」という文字の書体も変化していきます。大正元年ごろに設置されたと思われる京都の木製の町名表示板は、初期のロゴにかなり忠実な詳細な図柄ですが、大正末~昭和初期の京都の琺瑯製の町名表示板や、戦後に設置された大津・大阪の琺瑯製の町名表示板では、森下仁丹が発表している商標の変遷と同様に、ロゴのデザインがかなり単純化されています。その流れからすると、大津で見つかった木製の町名表示板のロゴは、京都の木製の町名表示板よりは明らかに時代が下がることが見て取れます。











細部を見ていきましょう。Aのタスキのような部分(大綬)は、京都の琺瑯製では両端が赤・真ん中が白抜きで表現されていましたが、大津の木製では驚いたことに真ん中に緑色が使われていました。Bの枠は赤枠が3本という京都木製の初期にみられたものではなく、 大正末(新聞広告では大正15年ころから確認できます)から昭和初期(森下仁丹による商標変遷の説明では昭和2年となっています)以降に採用された商標と同じ2本線です。Cの肩章(総付きエポーレットというそうです)も同様に簡略化されています。Dの「仁丹」文字のデザインは、明治・大正期の商標や京都の木製で用いられていた毛筆様ではなく、その後の商標や京都の琺瑯製で用いられている字体に近いものになっています。また、額縁状の枠Eについては、これも驚いたことに赤ではなく、褪色・剥離がありますが青緑に近いような色が使われているのです。 そして、地色は白です。 大津の木製には、京都の琺瑯製の配色やロゴのデザインを彷彿とさせる共通項が多々見られます。


モノクロ写真で気になっていた表示板の下部の不鮮明だった部分、ここには



「火の用心」と書かれていました!

明治以降、売薬業をはじめとする様々な企業によって、新聞や屋外看板などを用いた広告が爆発的に増加しました。森下博により明治33年に発売された梅毒薬毒滅、その5年後に発売された仁丹も、積極的に広告を使用したことで知られています。しかしながらこれら広告に対して、明治末になると景観上の批判が度々なされるようになり、広告物取締法が制定されるに至ります。それら批判や取り締まりの中で、森下仁丹は、取締対象外となる「公益性」のある町名表示板という手法を用いることで、仁丹ロゴのついた看板を設置する事が可能になったのではないか、と考察したことがありましたが(明治期の新聞にみる仁丹広告(7)行政による広告規制と仁丹)、この「火の用心」もまた、町名表示にプラスした「公益性」の表現と言ってよいのかもしれません。

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もう一つの発見は、設置時期に関するものです。仁丹の町名表示板が写っている画像や新聞・雑誌などの資料を使って設置時期をどこまで遡ることができるのか、というのが一つの課題でした。大津市歴史博物館所蔵の画像データは非常に膨大で、限られた時間の中ですべてをチェックすることができたわけではありませんが、数百枚というかなりまとまった数の古写真を確認させていただきました。古写真等の資料閲覧、その検討などでご協力くださった木津勝学芸員には、この場を借りて心より御礼申し上げます。

画像の多くは戦後に撮影された琺瑯製の町名表示板が写っているものでしたが、戦前の写真の中にも仁丹の町名表示板が写り込んでいる写真をいくつか確認することができました。

例えば、平成10(1998)年に大津市政100周年を記念して実施された特別展「家族の一世紀」の図録に収録されている画像の中にも、以下のような2枚があります。

大津市歴史博物館『図録 大津市政100周年記念特別展 家族の一世紀』1998年、p.39


同、p.86

上に示した2枚のうち、「菱屋町商店街の旧景」は昭和10年頃とされていますが、「合併祝賀の花自動車」は、大津市が昭和8年4月に膳所町・石山町と合併した際の祝賀行事を記録した写真ですので、撮影時期がより明確なものです。上部に仁丹のロゴ、その下に町名「菱屋町」「下博労町」が書かれ、下には広く余白部分があります。拡大しても文字は判別できませんでしたが、おそらくこれまでみてきたものと同様に「火の用心」のような文字が書かれていたのかもしれません。

なお、菱屋町商店街の写真とほぼ同じ場所を写したものとして、昭和5年に刊行された『大津商工人名録』に載っている菱屋町の写真にも仁丹の町名表示板が写り込んでいます。

友田彌作(編)『大津商工人名録』昭和5年、大津商工会議所(滋賀県立図書館 蔵)


さらに一枚、今回発見した古写真のうち最も古いものとして、大正14年頃に撮影された大津市内の風景にも、2枚の町名表示板が写り込んでいました。

撮影者不明、大正14年頃の撮影(大津市歴史博物館蔵、使用許可取得済)

これらは大津市街の少し北、皇子山陸上競技場にほど近い観音寺地区に設置されたもので、橋を挟んで右手手前と左手奥に一枚ずつ、仁丹ロゴのついた町名表示板が見えます(赤丸部分)。拡大してみると、上部には仁丹のロゴがあり、その下部分は3文字もしくは4文字程度の字が書かれているように見えます。


種々検討しましたが、字の配置の関係、この画像が撮影された当時の地域の呼称などから、書かれている町名表記は「観音寺」、その下におそらく「火の用心」の文字という構図だと思われます。なお、左手の町名表示板のわきに見える電柱に付けられた看板は「仁丹ハミガキ」、この発売開始は大正12年(1923)です。写真提供者の方によると、この写真は大正14年頃に撮影されたものであるとのことでした。

当初、樂會のなかでは、これら大津の町名表示板は戦後に撮影された画像しか確認できていなかったため、「戦中の鉄材不足により、京都と同様のデザインのものを木製で作成していたのではないか?」という意見もありましたが、昭和初期、次いで大正時代の写真が出てきたことで、少なくとも大正時代にまで設置時期を遡ることができることが分かりました。この時代に大津市内に木製の町名表示板が設置されていたとすると、先ほどのロゴの違いでみたように、大津の木製の町名表示板のデザインが京都の木製と琺瑯製のちょうど間を埋めるようなものであり、むしろ京都の琺瑯のルーツとなるような位置づけになるのかもしれません。大津の町名表示板は非常に興味深い事例であると思います。

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とはいえ、大津市に関してまだサンプルとして確認できた例は少なく、引き続き様々な文献や画像資料から設置時期と設置状況の検討につながるような情報を探し続けていきたいと思います。
また、他の都市にもひょっとすると木製や琺瑯製の町名表示板が設置されたのかもしれませんし、なかには現存するものもあるかもしれません。これからも京都仁丹樂會は「全国津々浦々」をめぐる謎に取り組み続けます!皆様も何かお気付きの情報がありましたら、ぜひ樂會までお知らせください。

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Posted by 京都仁丹樂會 at 03:14Comments(1)基礎研究

2016年03月22日

全国津々浦々の考証(その8)

全 国 津 々 浦 々 の 考 証 (その8)
~大津でも木製仁丹発見!!①~


まずはじめに、町名表示板の設置先と設置時期に関して、森下仁丹の社史に書かれている記載を再度確認しておきたいと思います。

「町名の表示がないため、来訪者や郵便配達人が家を捜すのに苦労しているという当時の人々の悩みに応え、1910年(明治43年)からは、大礼服マークの入った町名看板を辻々に揚げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり、今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる」


『総合保健薬仁丹から総合保健産業JINTANへ 森下仁丹100周年記念誌』(1995)


しかしながら、現存する町名表示板は、戦前に設置されたことが確実な京都及び伏見のものを除いては、大阪、奈良、大津など戦後に設置されたものがわずかに残るだけでした。私たち京都仁丹樂會は、「明治43年から」「全国津々浦々」に設置されたという記述を検証する取り組みを続けており、以前「全国津々浦々の考証」シリーズの 「東京で仁丹発見!!!①」「東京で仁丹発見!!!②」「東京で仁丹発見!!!③」など、大正時代に東京市とその周辺地域に約9万枚もの町名プラス番地の表示板(東京市の記録では「町名番地札」という名称)が設置されていたことが確認できたことをご紹介しました。




その後も、東京以外でも戦前に設置された町名表示板はないのだろうか、琺瑯製のみならず木製看板は存在しないのだろうか、という疑問のもと、各種データベースや新聞記事などの探索を続けていたところ、ついに、戦後に設置された琺瑯製のものしか確認できていなかった大津にも、木製の町名表示板が存在したことが分かったのです!

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その画像はこちらです。きっかけは大津市歴史博物館の「大津の歴史データベース」中にある「大津の古写真」に収録されている画像でした。



「雨の日の京町通(昭和31年)」昭和31年10月 谷本勇氏撮影、大津市歴史博物館所蔵
大津の歴史データベース「大津の古写真」 ※画像利用申請済

拡大してみると、京都の木製の町名表示板と同じような枠が付けられており、上部に仁丹ロゴ、下にはなにやら不鮮明な「火の用心」のような文字が見えます。




同じような町名表示板は、このはす向かいにも取り付けられていました。現在は鍛冶屋町の自治会館がある建物です。大津祭の際には、ここは西行桜狸山 (さいぎょうざくら たぬきやま:通称 狸山)の会所となります。同じく昭和30年代にその大津祭の準備の様子を撮影した写真が京都府立総合資料館所蔵の「近藤豊写真資料」のなかにありました。
画像の使用許可が下り次第画像も貼り付けたいと思いますが、現在は申請中ですので、「近藤豊写真資料」のデータベースを制作した立命館大学アート・リサーチ・センターへのリンクのみ貼らせていただきます。画像はリンク先でご覧ください。

「大津市、四宮祭(大津祭)、狸山正面」撮影日:昭和38年10月6日 撮影者:近藤豊


先程の画像よりも不鮮明さが増しますが、狸山会所の2階の柱部分に取り付けられた板状のものに、仁丹ロゴがうっすらと見えるのではないかと思います。
鍛治屋町の自治会館にいらっしゃった地元の方にお話を聞いたところ、確かに以前はこのような木製の町名表示板がついており、同じ町内で隣の町との境にあたる自宅にもについていたという記憶をお持ちの方もいらっしゃいました。
大津祭の際には、狸山は毎年くじ取らずで先頭を巡行します。たまたま鍛冶屋町で、大津祭保存会の会長さんともお話することができました。国指定重要無形民俗文化財にもなった今年は、3月20日の提灯行列に始まり、祝賀行事が続くとのこと。今年のスケジュールは、山建て10月2日(日)、宵宮10月8日(土)、本祭10月9日(日)です(大津祭曳山連盟ホームページ)。機会があれば是非御覧になってください。

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これらの町名表示板写真は、昭和30年代に撮影されたモノクロ写真であること、町名表示板自体の劣化もかなり進んでいるように見えることから町名の下に何が書かれていたのか、どのようなロゴや色が使われていたのかが判読できませんでした。また、これら2枚は戦後の撮影写真であるため、より設置時期を遡ることが出来る資料はないものだろうかと考えました。


そこで、大津の歴史に詳しくかつ膨大なデータをお持ちの大津市歴史博物館にお伺いし、調査へのご協力をお願いしたところ、快諾していただきました。その発見は次回に!!

京都仁丹樂會 idecchi
  


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2015年05月03日

全国津々浦々の考証(その7)

全 国 津 々 浦 々 の 考 証 (その7)
~東京で仁丹発見!!!⑤~


大正時代、森下仁丹により東京市とその周辺にも町名表示板が設置されていたという公文書と当時の古写真が発見されたことは、これまでの連載の中でご紹介してきたとおりです。9万枚を超える規模にはたいへん驚かされますが、それだけの大量の設置枚数にもかかわらず、なぜ東京では今日まで町名表示板が残されていないのでしょうか。それは東京を襲った関東大震災による家屋倒壊と焼失、そして戦時中の金属供出、東京大空襲による壊滅的な被害、ならびに戦前戦後に相次いで行われた町名地番整理などが影響していると考えられます。

大正7から9年にかけて森下仁丹により町名表示板が東京に設置されてからわずか数年後の大正12年9月1日、関東地域は大震災に見舞われました。東京でも地震そのものによる建物への被害があったばかりでなく、その後発生した大火災により、市域の約44%が焼失するという大惨事となりました。以前紹介した町名表示板が写りこんだ画像の東京貯蔵銀行にほど近い、銀座尾張町の交差点は、震災直後このような風景となりました。



岡田紅陽『東京震災写真帖』文山社、大正12年
(国会図書館近代デジタルライブラリー)


9万枚余りの町名表示板のうち、被災地域の多くでは町名表示板も同時に焼失してしまったものと思われます。

しかし、その後すぐに森下仁丹は町名表示板を再設置していたようです。
震災から2年後の雑誌にこのような文章があります。

人々は今尚記憶して居られるであらう。あの広い東京が見渡す限り一面の焦土と化し終つた当時。焼け跡を尋ねるに町名の見当が更らに附かず、如何に多くの人々が困惑したかと云ふ事実を。……
ところが、焦土の余熱も去らぬ日、早くも「仁丹」の商標を入れた町名札が元の如く焼け跡に立てられたと云ふ事実を気附かなかつたものもあるまい。あの仁丹の町名札のため当時の東京人がどれだけ便宜を受けたかは実に測り知られぬものがある。現在でも東京の街を歩るけば到る処の町角に矢張り仁丹の町名番地札が貼られてあつて、親切に吾れ吾れに道を教へてくれる。

一記者「広告を透して見たる事業界盛衰記(其二)仁丹と森下博の巻」
『事業と広告』大正14年8月号


これこそ「広告益世」の最たるものでしょう。震災後にどのような町名表示板がどの程度設置されたのかは資料不足のためまだ十分分かりませんが、少なくとも震災後も復旧の過程の中で森下仁丹が町名表示板を再設置し、それが役立っていたことは間違いないようです。


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その後、震災からの復興を目指した東京では、大々的な町名地番整理がされました。震災前後の尾張町2丁目周辺の地図を比較すると、その差は一目瞭然です。大正11年、昭和5年の地図を比較した下の図では赤のマル部分が尾張町2丁目にあたりますが、昭和5年の地図では町名は銀座6丁目に変わり、その周辺地域も含めて町名が一変していることがお分かりになるかと思います。





上:最新式大東京地圖番地入(大正11年) 下:京橋區全圖(昭和5年)
いずれも国際日本文化研究センター所蔵地図データベース(tois.nichibun.ac.jp/chizu/)


震災前、銀座は4丁目までしか存在せず、その南および銀座の西側には歴史的背景を持った町名が数多く存在していました。江戸時代の尾張藩による埋立工事に由来する尾張町もその一つです。しかし町名地番整理によって、銀座は南へと拡大し、また銀座西という新たな町名が出来上がっています。

たとえ震災の被害を免れた地域であっても、その後の町名地番の変更、また東京の拡大に伴う市への編入による住所の変更からは免れなかったと思われます。昭和7年には旧東京市周辺にあった5郡82町村が東京に編入されました。その際、新設された区名のもとで新たな住所表示が導入されることとなり、大々的に地名が変更されていきました。

『東京朝日新聞』昭和7年10月1日

一部抜き書きしますと、
今一日を以て東京市に編入された五郡八十二ヶ村は、大東京実現によつて、一斉に従来の町村名を廃し、新設区の下に新しき町名を以て呼称される…新町名は左の通りで、かつて八百八町といはれた大江戸は、一日から約二千の町を包容する訳である、尚東京市では近き将来において番地の一斉整理を断行する方針であるが、それまでは従来の番地のまゝである 


東京における町名表示板は詳細に番地まで記された形式ですから、東京への編入に伴う新しい区名への変更、町名の変更、また仮にそれらに変更がなかったとしても番地変更がされれば、以前のものは同じように使用することができません。旧来の住所表記の札が残されていれば、かえって混乱を招くばかりです。
東京とは対照的に、災害や戦争被害が限定的なものにとどまり、また行政による町名・地番の変更が行われなかったということが、京都で設置された町名表示板を「現役」にし続けている大きな要因であるともいえるのです。


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まだまだ謎は残ります。大正末から昭和初期にかけて、京都市内では木製のものに代わって琺瑯製の町名表示板の設置が進められました。震災からの復興や東京市の拡大、町名地番整理などが進められた後、同様の取り組みは東京市内では行われなかったのでしょうか。関東大震災直後に早速町名表示板を再設置していた森下仁丹であれば、その後の住所変更や東京市の拡大に対応して、琺瑯製の町名表示板に付け替えるくらいのことは実施してもおかしくはないはずです。

残念ながら現時点では、東京市内での琺瑯製の仁丹町名表示板に関する情報はないため、これについては検証のしようがありません。

しかしながら、他社により手掛けられたものに関しては現時点でも貴重な生き残りが存在しています。



戦前に設置された琺瑯製の町名表示板の数少ない生き残りの一つが、上の画像です。全国の琺瑯看板のデータを収集されているTMさんのサイトをもとに、現地に撮影に行かせて頂きました。仁丹のものではありませんが、こちらのスポンサーは、戦前に森下仁丹同様に全国に琺瑯製の屋外看板を積極的に設置した鈴木商店(のちの味の素社)です。

産業技術史資料共通データベースによれば、
「お椀マーク」は明治42年の商標登録以来、現在でも使われているお馴染みのものです。お椀型のほか短冊型柱掛け、横書き、五色看板、矢入り吊り看板など多種類ありました。中でも好評だったのは短冊型町名番地入りの看板だったということです。鈴木商店(のちの味の素社)は大正11年に、特約店から小売店まで全国すべての取扱店に「味の素」の看板を掲げるとの方針を立て、サイドカーに乗って全国くまなく巡回して看板を設置して回ったということです。
とあります。

戦後、芝区は他の区とともに港区となっており、この町名表示板に書かれた住所、番地も現在のものとは全く異なります。この1枚はよくぞ奇跡的に残ってくれたものだと感動します。おそらくこのような琺瑯製の表示板もまた戦前に数多く設置されていたのでしょう。しかしながら、それもまた、東京大空襲による被災と、その後の町名や区名の変更、番地の変更などに伴い、姿を消していったものと思われます。また、戦時中の金属供出も影響を与えたのかもしれません。京都市内で琺瑯製の町名表示板が残されている理由として、金属供出の例外事項として「琺瑯引きのもの」という条項があったことが関係しているのではないか、と以前の考察「戦争と仁丹町名表示板」で指摘したことがありますが、琺瑯引きであっても積極的な拠出の運動に巻き込まれたとすれば、町名表示板の運命は大きく変わります。この点はさらなる考察が必要であると思われます。

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京都仁丹樂會では、京都市内の仁丹町名表示板のみにとどまらず、東京はじめそのほか主要都市における仁丹町名表示板の痕跡探しを引き続き行っていきたいと考えています。何か情報をお持ちの方、また、奇跡的に残された現物をご存じだという方いらっしゃいましたら、是非とも樂會までご一報くださいませ。




京都仁丹樂會 idecchi
  

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2015年04月27日

全国津々浦々の考証(その6)

全 国 津 々 浦 々 の 考 証 (その6)
~東京で仁丹発見!!!④~


これまでもこのブログで発表してきたように、京都仁丹樂會では、京都で木製および琺瑯製の町名表示板が設置された時期に関して

 【木製の始期】 明治43年かその直後
 【木製のピーク】 大正一桁の前半
 【木製の終期】 大正7、8年頃

 【琺瑯製の始期】 大正末期(遅くとも大正14)
 【琺瑯製のピーク】 昭和 3年まで
 【伏見市の時期】 昭和 4年頃
 【右京・左京の追加】 昭和 6年頃
 【琺瑯製の終期】 昭和10年頃



という推定をしました。

東京市の公文書『町名札ニ関スル書類』からすると、東京において木製の町名表示板の設置が進んだのは、大正7年12月から大正9年10月でした(全国津々浦々の考証 (その4)~東京で仁丹発見!!!②~)。京都において木製町名表示板が終期を迎え、琺瑯製の設置が始まる、ちょうどその間の部分と重なってきます。

前回紹介した古写真から発見された東京の木製の町名表示板3枚を、京都のものと比較してみるとどのような特徴が見えてくるでしょうか。


京都では上の写真のように、細かいレイアウトが微妙に異なることがお分かりいただけるかと思います。仁丹のロゴは表示板上部に付けられ、その下の住所表記の多くでは、区の表示はなく、通り名が小さい文字で表記され、その下に大きく町名が記されるパターンが多くみられました。



また、商標の下に通り名の一部をローマ字で表記しているものや、方向を示す指先マークを描いているものも見られます。デザインを模索している途中であったのではないかと思われます。






今回発見した東京の町名表示板に関してはまだサンプル数があまりに少ないため、書式を特定できる状況にはありません。今後の画像や資料の発掘しだいで、京都同様にレイアウトの異なるものが発見される可能性ももちろんあります。ただ、現時点で写真で確認できている範囲では、この「尾張町」のもののように、ロゴは下部にあり、上部に小さい文字で区名が記され、その下に太字で町名、その下に丁目、番地が書かれるという形式になっています。区名を小さく横書きにするという表記は、京都では木製のものには確認されておらず、琺瑯製の町名表示板のほとんどで採用されている形式です。京都における木製、琺瑯製のちょうど間の時期に設置が始まった、という性格が表れているのかもしれません。

なお、京都では琺瑯製に代わると町名の文字が小さくなり、通りの名が大きく表示されるようになりました。これは「木製仁丹設置時期の裏付け発見 2」の回でも紹介したように、木製の町名表示板を設置した当時の『京都日出新聞』の投書欄に「何等の実用上功の無い町名其物を大書して何通何町何入の指示名を却つて小さく割書にしたのは字配の都合からかは知らぬが何だか間が抜けてゐるよ」という記事が載ったように、京都市民からの指摘を受け、琺瑯製に切り替える際にはより利便性の高い表記方法に改められたのではないでしょうか。




上の写真のように、同じ住所、町名の表示板でも、木製時代と琺瑯時代とでは、表記される通りと町名の文字の大きさが明らかに異なっています。


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京都の町名表示板には書かれていない情報として、写真で確認された東京の町名表示板には番地まで記されており、設置にあたってはその番地が該当する限られたエリアの建物にしか設置できないものとして作られたもののように思われます。これは、京都の場合、通りの名前を組み合わせた独特の住所の公称表示が存在していること、さらに東京においては当時地番と町名が錯綜しており、あまりにも規則性のない番地の割り振りが多くみられたために様々な支障をきたしていたことなど、それぞれの地域の実情が反映されているのではないでしょうか。



『読売新聞』明治36年2月21日


たとえば、明治36年2月21日の読売新聞に掲載された記事を抜き書きしてみると、
「東京ハ市街が曲りくねつて居る上、番地が乱雑になつて居て、十番地の隣に八番地があつて其の隣へ突然五番地が現はれて来るやうな始末だから、始めて行く家を探すのハ非常に骨が折れる。」


同様の指摘は他にも見られます。

東京は分りにくいと何人も非難して居るでせう。一つは市区整然としてゐないのと町名の乱雑が原因となつてゐるのです。此の町名の乱雑で市民地方人及び外人などが非常に迷惑してゐます。
…(略)
恐らく東京の番地ぐらゐ乱脈なところはないだらう。一寸知人の家を探すにもてんで見当が付かない。一、二、三と云ふ風に順々になつてゐたならば、どんなにか便利だらう。東京市の力で整理して貰へないものかしら。…(略)…一日中知人の家を尋ねて歩く時のなさけなさ、心細さ、又大切な時間をつまらないことにつかつてしまふことの口惜さ、誰もが一度や二度は、きつと経験をもつてゐることだらう。町にしても妙に入りくんで居て、今此処が△町だと思ふと、その向ひ側は▲町になり、その裏は又△町だと云ふ風になつて居るのも見受ける。

東京市政調査会 編『小市民は東京市に何を希望してゐるか』大正14年
(国会図書館近代デジタルライブラリー)


町界が複雑だというのは京都にも当てはまりますが、不思議にそのような苦情は聞きません。通り名を使って表現するのが主体なので気にならないのかもしれませんね。
とはいえ、上記のような状態が多くの場所で発生していたとすれば、地理に不慣れな観光客や来訪者はさぞかし不便な思いをしたことだと思います。東京の表示板に番地まで付していたのには一定の合理性があるように思えるのです。
~つづく~


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2015年04月18日

全国津々浦々の考証(その5)

全 国 津 々 浦 々 の 考 証 (その5)
~東京で仁丹発見!!!③~

これまでまとめて来たように、森下仁丹により9万枚を超える規模の町名表示板が東京市とその周辺地域に設置されたとなれば、あとはその現物が見たくなるところです。現在の東京で仁丹の町名表示板が存在している、という情報に触れたことはありません。わたしたち京都仁丹樂會以外にも、全国には琺瑯看板やその他さまざまな看板類の撮影やデータ収集をされている方々がいらっしゃいますが、その方々のサイトやブログでもこうした情報には接することができませんでした。そうなれば、ひたすら当時の古写真、絵ハガキ類に片っ端からあたっていくしかありません。


『東京名所写真帖 : Views of Tokyo』明治43年、尚美堂
(国会図書館近代デジタルライブラリー)

たとえば上の画像は、明治43年の『東京名所写真帖 : Views of Tokyo』に掲載されている浅草の仲見世の画像です。仁丹ではありませんが、仲見世の左側の壁面についているのが明治末に東京市内で貼られていた町名札のようです。右に拡大したものを合わせて貼りつけましたが、「浅草公園第二区」という表示が読み取れます。この時代の東京市内の写真のなかには、類似のものを何点か見ることができます。おそらく、東京市の予算で設置されたのはこのような形状のものだったと思われます。このように、当時の写真に仁丹町名表示板が写り込んでいないか探す作業を続けた結果、ようやく念願のものに出会えたのです。

**********




歴史写真会『歴史写真』大正10年1月号(国会図書館近代デジタルライブラリー)


上の写真を見て、分かるでしょうか?写真中央少し上の壁に町名表示板が取り付けられています。そこにはハッキリと、仁丹のロゴが見えるのです。


この写真「虚説流布に脅され預金者東京貯蔵銀行に殺到す」の有難いところは、左側の説明文から、撮影場所及び撮影時期が特定できるところです。抜き書きするとこのような文面です。
「虚説流布に脅され預金者東京貯蔵銀行に殺到す」
…略…
即ち大正九年十一月六日東京東京貯蔵銀行の取付騒ぎなども全く此種の悪戯に基因するもので…写真は当日同銀行銀座支店取付の光景である


この文章から、東京貯蔵銀行の銀座支店で撮影された大正9年11月6日の画像であることが分かります。

写真の町名は「尾張町」とあります。当時の資料を当たると、写真にある東京貯蔵銀行支店は「京橋区尾張町2丁目14番地」にありました。

東京市区調査会『東京市及接続郡部地籍地図. 上卷』大正1年
(国会図書館近代デジタルライブラリー)


おそらく「京橋区」が上に横書きで書かれ、太字で「尾張町」、その下は「二丁目 十四番地」 かと思われます。この場所、現在は「銀座六丁目10地区第一種市街地再開発事業」として、松坂屋銀座店跡地を含む2つの街区を整備する再開発事業の最中ですが、つい最近まで三井住友銀行銀座支店がありました。


**********


こちらは京都仁丹樂會関東支部grv1182さんが発見された、芝区にあった三友商会という店舗の画像です。店の左側に取付けられていると思われる町名表示板にも同様に、上に区名、その下に太字で町名、判読が難しいですがおそらくその下に番地、一番下に仁丹ロゴ、というまったくおなじレイアウトが見てとれます。


『遊覧東京案内.1922版』大東社、大正11年 (国会図書館近代デジタルライブラリー)



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また、こちらも関東支部grv1182さんが発見されたものです。これは土木学会が設置している「土木学会附属土木図書館」のデジタルアーカイブスのなかで紹介されている歴史的資料のうち、関東大震災の調査報告資料に掲載された数多く写真の一枚です。東京市芝区車町の変電所を写したもので、板塀に設置されています。

土木学会編『大正十二年関東大地震震害調査報告  第三巻』昭和2年
(土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス「関東大地震震害調査報告掲載写真」
 No.152.車町変電所 (芝区車町)」より画像使用 ※掲載届出済)


この画像を拡大してみるとこんな感じです。


芝区車町は当初は芝車町という名称でしたが、明治44年に芝区車町に変更されています。現在の高輪2丁目~芝浦4丁目ですから、品川駅の北側あたり、赤穂浪士のお墓で有名な「泉岳寺」のすぐ近くに位置します。


**********


これら3枚の町名札以外にもまだまだ眠っている資料は数多くあるのではないかと樂會では考えております。
何か御存じの情報、資料などがありましたら、是非ともご一報下さい。

東京で見つかった公文書と古写真、ここからいくつか分析を試みたいと思いますが、それはまた次回以降ということで。
~つづく~


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2015年04月08日

全国津々浦々の考証(その4)

全 国 津 々 浦 々 の 考 証 (その4)
~東京で仁丹発見!!!②~

前回に続き、東京都公文書館所蔵の東京市の公文書『町名札ニ関スル書類』を手掛かりに大正時代の東京における仁丹の町名表示板設置状況について検証してみたいと思います。東京市からは、大正10年に「町名標示ニ関シ照会ノ件」という文書で、京都をはじめとする主要都市に対してだけでなく、森下仁丹(当時は森下博薬房)の東京支店に対しても町名表示板の設置に関して問い合わせが行われていたのです。


東京市「町名標示ニ関シ照会ノ件」庶発第二三六号(大正10年3月11日) (東京都公文書館所蔵)

上の文書をご覧ください。
「参考資料トシテ必要ニ付貴店施設ニ係ル市内町名札ニ関スル件左記項目ニヨリ御調査ノ上折返シ御回報相煩度此段照会候也」
として、

一、始メテ東京市内ニ町名札ヲ取付シタル年月日及其費用枚数
一、第一年后毎年是ガ修補若ハ増設ニ要シタル費用内訳其枚数

について尋ねています。

**********


この問い合わせに対して、森下仁丹からは具体的な回答が寄せられていました!!!この資料を見つけたとき、思わず声が上がりました。たいへん詳細に、設置年月日ならびに予算、掲示場所と枚数までもが回答されているのです。




「町名番地札(仁丹広告入)明細調書」(東京都公文書館所蔵)


上の画像は、大正10年3月14日、東京市神田区錦町にあった仁丹本舗森下博薬房の東京倉庫印が押された、東京市への報告「町名番地札(仁丹広告入)明細調書」です。この調書によると、大正7年12月にはじめて4,530枚を製作し、そのうち352枚が設置されています。それ以降も大正9年10月までの間、合計で92,178枚もの町名表示板が製作され、そのうち90,440枚が東京各所に設置されたことがわかります。私たち京都仁丹樂會が京都市内で埋蔵、消滅も含めて今まで確認した町名表示板の総数は1,380枚、それを麹町区1区(1,876枚)だけで優に超えてしまうのです。いかに東京における設置枚数が多かったが分かるとともに、もし同様の取り組みがなされていたのであれば、京都市内にも相当な枚数の町名表示板が設置されていたのではないか、と想像がつきます。

**********

この調書からはその他にもさまざまな情報が記載されています。たとえば町名表示板の製作費用は釘代や荷造費用などの雑費も含めると総額で45,000円近くにものぼります。明治40年以来の東京市による町名札設置及び追加・補修による設置枚数の合計は、「町名札ニ関スル書類」によれば71,363枚、総予算3,514円余りでした。総額4万5千円を投じた森下仁丹の設置費用がいかに巨額であるかがわかります。

以前「新聞広告に見る仁丹(2)仁丹の急成長と新聞広告」でもご紹介したとおり、森下仁丹は大衆薬「仁丹」の発売以来積極的に広告活動を展開しました。南極観測隊が3個組織されるとまで噂された巨額の広告費を投じていた森下仁丹ですから、これだけの費用を東京への町名表示板設置に投じたこともうなずけます。『森下仁丹80年史』では、その広告費は大正9年に100万円を突破していたとしています。戦前仁丹宣伝部長を務めていた谷本弘氏は
「広告費は大正十二年がレコードであったと思ふ。おそらく百万円を突破したことだろう。その中新聞広告が六分、他の広告費が四分の割合である。」
と回想しています。同じく80年史に採録されている年表では、大正9年度の森下仁丹の売上高が558万円となっていますから、広告費に投じられる割合の高さが容易に想像できるかと思います。


また、設置に関わった人員も掲載されています。延べ人数3,960名が411日の日数をかけて東京市内及び東京市近郊地域中に町名表示板を張りまくったということが分かるのです。この掲示作業にかかった人員には、
「此外実地ニ付予備調査等ニ延人員約五百人ヲ要セリ 掲示全部本舗ノ雇員ヲ以テ従事セシメシ為此分ニ対スル金額ハ算出困難ナリ」
との注があります。つまり、掲示作業そのものは外注ではなく、仁丹本舗のスタッフが直接行ったということになります。

当時の森下仁丹では拡張部員たちが国内外を駆け回り、看板を設置して回っていたようです。『森下仁丹80年史』によれば、
「販売は代理店に一任し、本舗社員は全員が宣伝拡張員となって、配置売薬商人のように全国津々浦々へ浸透させる。しかし宣伝拡張員は、配置売薬のように薬を売って歩く必要はない。宣伝をして歩けばよい。『仁丹』の看板を配置して歩けばよい。… 突出し看板とともに、鉄道沿線の野立看板、そのほか人目につくあらゆる空間を利用して屋外看板を設置していった。そしてその際、これらの屋外看板の取付けは、業者まかせではなく、すべて従業員が自分たちの手で実施するものであった。…販売3年目の明治40年に開設された東京倉庫の仕事のほとんどは宣伝広告の仕事であり、特に看板の取付けという業務であった。
との記述があります。京都市内の町名表示板も、仁丹の社員たちによって一軒一軒同じような作業が行われていたのかもしれません。

**********


掲示場所のリストをもう少し詳しく見てみたいと思います。現在の東京23区とは異なり、当時の東京市は下の画像にあるように15区から編成されていました。さきほどの「明細調書」の掲示場所リストの中ほどにある「小計」部分まで、74,766枚が東京市内です。その下、15,674枚は、東京市の近隣地域に設置されたものでした。当時の東京市の地図をご覧いただくと、おおよその地理関係が分かるかと思います。



東京市編『東京市域拡張史』(昭和9年)(国会図書館近代デジタルライブラリー)

図の中央が東京市、その周辺に位置する、大井、品川、渋谷、千駄ヶ谷、巣鴨などはまだそれぞれ町であったことがわかります。これら東京市に隣接する地域にも森下仁丹は町名表示板を設置しているのです。

**********


こうした森下仁丹の取り組みに対し、東京市は次のようにまとめています。
「大正七年十二月仁丹本舗森下博ハ市内及隣接町村ニ町名番地札ヲ標掲シ売薬仁丹ノ広告ニ資スルト共ニ一面市内交通ノ便ニ供センコトヲ企画シ警視庁ノ許可ヲ受ケ初メテ四千五百枚ヲ作成各所ニ掲示セリ……此ハ広告ヲ以テ主ナル目的トセルモノナルヲ以テ市街風致上多少ノ欠陥ナキニアラサルモ番地毎ニ明瞭ナル標示札ヲ掲示セルモノナレハ一般交通者ノ為有益ナル施設ノ一ナリトス」



以前「明治期の新聞広告からみる仁丹(6)行政による広告規制と仁丹」のなかでもご紹介したように、森下仁丹が東京市内で展開していた電柱広告に対して、明治42年に警察から「待った」がかけられました。白地に売薬『毒滅』の商像であるビスマルクの像、その上へ更に赤字で『仁丹』の商品名を書くというデザインで製作した電柱広告には風致上問題があり、警視庁の許可内容に反するとして塗り替え命令を受けたものです。当時、売薬業をはじめとして様々な企業が屋外広告に積極的に取り組んだ中で、そのあまりの氾濫ぶりに対して景観上からの批判の声、また行政からの規制の動きが強まっていきました。下の画像に示した警視庁管下における広告物取締法施行規則(大正3年警視庁令第10号)では、以前取り上げた京都における広告物規則に対する規制と同様に、「公益ノ為ニスルモノニシテ警視庁ノ許可ヲ受ケタル場合ハ」取締対象とならないとあります。



商店界編集部(編)『賣出オール戦術』昭和8年、誠文堂(国会図書館近代デジタルライブラリー)


大正7年以降の町名表示板設置にあたっては、警視庁の許可を受けた上で取り付けが行われており、東京市からも「広告を目的とする町名表示板は風致上多少の欠陥は無いわけではないが、有益な施設の一つである」、との評価を受けているのです。「広告益世」を企業理念の重要な柱としていた森下博による、公益性を前面に出しながら企業広告も同時に行うという実に巧妙な戦略がうかがえるのです。
~つづく~


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2015年03月30日

全国津々浦々の考証(その3)

全 国 津 々 浦 々 の 考 証 (その3)
~東京で仁丹発見!!!①~

シリーズ1回目でもご紹介した、私たちにはおなじみの「大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり」というフレーズに立ち返ってみましょう。

確かに大阪や奈良、大津などには戦後の琺瑯製の町名表示板こそあるものの、戦前期、とりわけ京都で木製の町名表示板が設置されたことが確認されている明治末から大正初期、ならびに琺瑯製の設置が進んだ大正末期から昭和初期にかけて、京都以外でも森下仁丹によって町名表示板が設置されていたのかどうか、これまでは確たる証拠を見つけることができていませんでした。

ただし、先行研究によると、東京にも仁丹の町名表示板(東京では「町名番地札」と呼ばれていたようです)が設置されていたという記述があります。山本武利『広告の社会史』法政大学出版局、1984年によると、
「電柱広告特に東京中にはりめぐらされた仁丹の広告には、仁丹が大阪企業の商品であることから、一部の東京市民の大阪商人への反発を買ったらしいが、次第に『仁丹の町名番地札に依って東京市民が実際どれ程便利を被ってゐるか知れない』という感謝の声が高まってきた」
とあります。ここで引用されている感謝の声は、大正8年8月13日付の『国民新聞』の「はがき便り」という投稿欄に寄せられた読者からの声です。


『国民新聞』大正8年8月13日


国民新聞の投書欄にある通りだとすれば、少なくとも大正の前半あたりには東京市内に仁丹の町名表示板が設置されていたということになります。ただし、震災や戦災で資料が焼失してしまい…という理由からか、これまで関心を持つ人がいなかったせいなのか、森下仁丹の社史はじめ、広告研究の文献などには詳細な記述は一切ありません。東京市民が便利を被ったという仁丹の町名表示板、はたして、いつ、どのくらいの枚数が設置されていたのでしょうか。

**********

私たち京都仁丹樂會でも、その資料探しに長らく力を入れて来たのですが、ついに!そのデータが詳細に記された資料を、東京都の公文書館で見つけることができました!大正時代、東京市によって作成された『町名札ニ関スル書類』です。

**********

東京市においても、家主などが便宜上必要な場所には町名番地札などを設置していたようですが、明治40年に東京勧業博覧会を開催したことを一つの契機に、東京を訪れる観覧者への便宜を図るため、市が予算を設け初めて6万2千枚を東京市内に設置したそうです。なお、この東京勧業博覧会は明治政府により開催された内国勧業博覧会が明治10年、14年、23年(いずれも東京)、28年(京都)、36年(大阪)と5回で終了してしまったため、東京府がそれを引き継ぐような形で上野公園や不忍池周辺を会場に開催されたもので、東京府『東京勧業博覧会事務報告 下巻』(明治42年)によれば、全国から680万人余りもの観客が集まったといいます。大正、昭和の御大典など、多くの旅行客が京都を訪れたのと同様に、東京においても観光客への道案内の重要性は非常に高まっていたと言えるでしょう。
その東京市が、大正10年3月、町名番地などの標示に関して、京都、大阪、神戸、横浜、名古屋という当時の5大都市に向けても、同様の町名表示板の設置状況を問い合わせているのです。

東京市「町名番地等標示ニ関シ照会ノ件」庶発二三五号(大正10年3月11日)

書き起こしてみると以下のような文章です。
「指道標及町名札等掲出ニ関シ左記事項承知致度候条乍御手数折返御回報相煩度此段照会候也
   京都、大阪、神戸、横浜、名古屋 各市役所宛
                      記
  一、市ノ費用ヲ以テ始メテ是カ施設ヲナシタル年月、及毎年ノ予算額内訳及町名番地札等ノ取付数(年別表)
  一、町名番地等標示ノ方法及町名札等ノ形式
  一、其他参考トナルヘキ事項 」


それに対して各自治体からおおむね1カ月ほどの間に回答が寄せられています。たとえば京都市の回答は以下のようなものです。

京都市役所 土第二三一六号(大正10年3月23日)

「大正十年三月十一日庶発第二三五号ヲ以テ御照会ニ係ル事項本市ニ於テハ該当スヘキモノ無之候条此段及回答候也但指道標ハ町ニ於テ以前便宜建設セシモノニシテ現今稀ニ存スルモノ有之候ヘ共年月日予算額内訳等ハ従テ不明ニ候尚本市内各町ニハ現ニ「仁丹」本舗ヨリ貼付ノ町名札有之候


つまり、京都市では、過去に町が自主的に設置した「指道標」があったものの、現在残っているものは稀であること、市が予算を設けて町名表示板を設置したことはなく、「仁丹」により貼り付けられた町名札があると回答しているのです。市が公式に仁丹の町名表示板の存在を認めている文書が出てきたことに驚かされました。

なお、京都も含めた各自治体からの回答をまとめると以下のようになります。
・京都市:市の予算では一切設置なし。但し仁丹による「町名札」はあり。
・大阪市:明治36年、初めて市費で町名札を作成、それ以来毎年修繕、増設。
       直近1年の予算は409円、町名札は1003枚。
・横浜市:該当設備なし
・名古屋市:大正2年の陸軍特別大演習を契機に町名札を掲示。
        また、街角の電柱に町名方向を表示した街灯700個を設置。
        大正10年度の予算2180円。
・神戸市:明治36年市の費用で初めて設置、以後必要に応じ修理増設。


これら回答をまとめると、東京市からの問い合わせが行われた大正10年時点で、仁丹による町名表示板が設置されていたのは、京都ならびに東京のみであることがわかります。

さらに興味深いことに、東京市からの問い合わせは、当時東京に町名表示板を設置していたという森下仁丹に対しても行われているのです。 
~つづく~


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2015年03月16日

全国津々浦々の考証(その2)

全 国 津 々 浦 々 の 考 証 (その2)
~前橋にも仁丹町名表示板が!?~


今年の正月も過ぎた頃、驚きのニュースが飛び込んできました。
当ブログの読者の方より、”前橋市に仁丹の商標付町名表示板があったようだ”とのメールをいただいたのです。

それは「前橋の昭和展」なるイベントで展示されていたのを後日ネットで発見されたものでした。
これ ↓ がその時のポスターです。



なるほど、確かに赤電話の左に青い縦長の町名表示板らしきものが描かれています。
早速、ネットでイベントの様子がないかと探してみると、小さな写真ではありましたが見つけることができました。その写真からは、確かに琺瑯製で、紺地に白の文字、そして最下部にはお馴染みの森下仁丹の商標が見られます。
紛れもなく仁丹町名表示板ではないですか!

関西の5都市以外にもあった! やはり全国津々浦々は本当だったのか! と一同色めき立ったことは言うまでもありません。


場所が群馬県の前橋市となると、京都仁丹樂會関東支部の出番です。情報を求めて、調査にでかけることになりました。

ネットで探し当てたその町名表示板は、「前橋市 竪町11番地」とあります。
「前橋市」は左横書きなので戦後のものなのでしょう。
でも「竪町」という町名は見当たらず、今は存在しないようです。
もしかしたら住居表示の実施により消滅した町名なのかと、さらに探索を続けると『商工まえばし別冊 「旧町名への旅」』なる資料に辿り着きました。(青字の部分はリンクしています)
前橋市では昭和40~42年に段階的に住居表示を実施、竪町はやはりその時に消滅した町名だったのです。今は、千代田町二丁目というようです。

※     ※     ※


このような予備知識を持って、いざ現地調査へと出発です。
イベントはすでに終了しているので、関係者の方に連絡を取ったところ、その時のたばこ屋のセットは別の場所で展示されているとのことでした。
そこはJR新前橋駅近くの印刷会社のショールーム内でした。




中へとお邪魔すると、ポスターで見たのと同じセットが置かれていました。昔懐かしい琺瑯看板や赤電話など、昭和レトロな品々がギュッと集められ、展示されていました。




そして、赤電話のすぐ近くにありました!仁丹町名表示板が! 遂に実物とご対面です。




しかし、近づいてみると何か違和感が・・・
先ず、商標が新しいのです。昭和49年からの商標が使われています。
住居表示が実施されたのが、昭和40~42年のことなので、それと同時にこの町名表示板は役目を終えたはずです。一体、どのように理解したらよいのでしょうか?

さらに近づいて、さらにじっくり眺めると・・・
なんと琺瑯製ではなく、紙にプリンターで印刷されたものでした。
サビやかすれなど、実物を至近距離で見つめて初めて分かるほどの素晴らしい出来映えです。



事情を印刷会社の方に伺ったところ、詳細は不明とのことだったので、次はこの町名表示板の住所を訪ねてみることにしました。

そして、この住所には現在お茶屋さんがあり、オーナーの方にお話を伺うことができました。

すると、実際にこの地に仁丹町名表示板があった訳ではなく、昨年のイベントの際に知り合いの方が昭和の雰囲気づくりのために作成した架空の町名表示板であるということが判明したのでありました。

※     ※     ※


ということで、今回の騒ぎはこれで決着が付きました。
結果としては、残念ながら仁丹町名表示板は存在せず、相変わらず関西以外での設置を確認することができませんでした。

今回のイベントは、あくまでも昭和レトロな雰囲気を醸し出すための演出だったのです。
その中には、本物のパーツもあればイミテーションも含まれていた、と言う訳です。

でも、町名表示板といえば仁丹、こんな町名表示板があればいいなぁと言う気持ちの表れでもあるのでしょう。
そのようなイメージが広がっているのは、当樂會としては嬉しいことではあります。

それにしても、配色と言いなかなか素晴らしい仁丹町名表示板でした。
本当にこのようなものがあればいいですね。

-つづく-

~京都仁丹樂會 関東支部grv1182~

  


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2015年03月10日

全国津々浦々の考証(その1)

全 国 津 々 浦 々 の 考 証 (その1)
~引用され続けるフレーズ~


京都の仁丹町名表示板に関心を持ち、森下仁丹株式会社に問い合わせをされる個人や報道関係者は以前よりしばしばあります。
そして、返ってくる答えにはどうやら次の2つの決まり文句があるようです。


まずひとつは、『戦時中の空襲で資料は焼失してしまい詳しく分からない。』
確かに、そうかもしれません。

そしてもうひとつは、次のフレーズです。
『町名の表示がないため、来訪者や郵便配達人が家を捜すのに苦労しているという当時の人々の悩みに応え、1910年(明治43年)からは、大礼服マークの入った町名看板を辻々に揚げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり、今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる』
~「総合保健薬仁丹から総合保健産業JINTANへ 森下仁丹100周年記念誌」より~


これは、1995年6月に発行された森下仁丹100周年記念誌からの一節で、次のような見開きの右側のページ中段真ん中辺りに記載されているのです。




注目すべき部分をピックアップするとこの↓ようになります。


そして、このフレーズは多くの個人のブログはもとより新聞記事、テレビ報道などに何度も何度も繰り返し、そのまま引用されてきました。
おまけに京都の琺瑯製仁丹町名表示板の写真が添えられているものですから、京都の琺瑯仁丹は明治43年からある!100年前からある!との誤解も生まれています。(ちなみに、ここに掲載された琺瑯仁丹は、昨年の年末に盗難に遭ったあの上七軒の真盛町の仁丹です。)

1974年発行の「森下仁丹80年史」には町名表示板のことには一切触れられておらず、100周年記念誌で初めて登場したこのフレーズ、今のところ唯一の公式見解と言え、時間的に制約のある報道関係などがそのまま使うことも無理のないところです。

しかしながら、今、改めて100周年記念誌のこの部分を読むとなると、仁丹町名表示板の研究が深まるにつれ新たに知ることとなった様々な事柄が思い起こされ、100%そのまま受け入れ難くなってくるのです。



琺瑯製と木製

京都の仁丹町名表示板には琺瑯製と木製とがあります。どちらが先に設置されたかとなるともちろん木製でしょう。そもそも広告用の琺瑯看板が安価に制作できるようになって一般的に普及し出したのは日本琺瑯工業連合会発行「日本琺瑯工業史」によると大正末期となりますので、明治43年というのは木製のことになります。

京都の琺瑯製仁丹町名表示板が写っている写真で最も古いものは、ずんずんさんが発見された大正14年2月18日撮影というものでした。
↑ 青い文字の部分をクリックするとリンクします 以下同様

では、木製は京都ではいつ頃から設置され出したのでしょうか?
それは大正元年頃のようです。idecchiさんが発見された大正元年9月2日の京都日出新聞における読者投稿欄「落し文」により分かりました。

大正元年ならば100周年記念誌で言うところの“明治43年頃”ともほぼ符号することになるでしょう。したがって、少なくとも京都の琺瑯製仁丹町名表示板を100年前からと言うのは明らかに勇み足と言うわけです。



大阪、東京、京都、名古屋、そして日本全国津々浦々

『大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり』

今、仁丹町名表示板の現物が実際に見つかっているのは、大阪、京都、大津、奈良、八尾の5都市のみで関西圏以外では1枚も見つかっていません。ただし、八尾は形も違い別格ですが。

ここで例示された大都市、東京と名古屋ではなぜ全く見つからないのでしょうか? 現物は無理としても古写真に写り込んでいてもよさそうなものです。
また、全国津々浦々ならばもっともっと見つかるのではないでしょうか? かの琺瑯看板研究の第一人者、佐溝力さんにしてもそのような情報には触れておられませんし、今のネット時代に全く情報がないのも非常に不自然なことです。



戦災だけが原因か?

『今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる』

暗に京都や奈良のことを言っているのでしょうが、戦災の少なかった全国津々浦々はこれらだけではありません。にも関わらず前述のとおり関西の5都市でしか見つかっていません。戦災は確かに最大の要因でしょうが、住居表示という後日的な政策も、表示板減少の一因になった場合があったのではないでしょうか。

住居表示とは、昭和37年に施行された「住居表示に関する法律」により合理的に定められた住所の表示方法のことで、それを実施するかどうかは各市町村の判断に任せられています。
“合理的に”というのは、従来、町名と地番(○○番地といった土地の番号)で場所を特定していたものを、広い道路や河川といった物理的に区切りやすいブロックに分け、そのブロック内で例えば時計回りに1,2,3と順番に住居番号を付番していくものです。

地番と違って住居番号は順番に並んでいるので、土地不案内の人からしたら分かり易いでしょうが、一方でそのブロック内に存在した昔ながらの歴史ある町名は消滅してしまい、○○丁目○○番○○号といった味気ない表現に変わります。金沢市や大津市で旧町名復活の話題がありましたが、これらは住居表示により消えた町名の再現なのです。もし、京都市で住居表示が実施されていたのであれば、何百という町名がなくなっていたところでしょう。

また、住居表示を実施するとその自治体は表示板を設置する義務が生じ、すでに設置されていた旧町名の表示板は紛らわしいだけ、ことごとく撤去される運命となったでしょう。

京都市に仁丹町名表示板が断トツに多く残っているのは、住所表示のバラエティさから元々多くが設置されたこと、戦災が少なかったこと、そして住居表示が実施されなかったこと、これらすべてが原因なのではないでしょうか。

なお、国土地理院に住居表示の詳しい解説があります。
電子国土基本図(地名情報)「住居表示住所」の閲覧・ダウンロード
これによると、京都府内では亀岡市と長岡京市の一部だけが住居表示を実施していることが分かります。



人々の悩みに応え、明治43年から

『町名の表示がないため、来訪者や郵便配達人が家を捜すのに苦労しているという当時の人々の悩みに応え、1910年(明治43年)から』

広告は世の中の為にならなければならないという“広告益世”なる思想の実践例として紹介されているようですが、しかし、その前段として明治後期に様々な店舗が派手な屋外広告合戦を繰り広げ、景観問題を引き起こしたことも背景にあったのではないのでしょうか。

そして、景観を守るため、屋外広告を規制する法律ができましたが、公益性のある看板なら設置しやすいという状況が新たに生まれ、町名表示を兼ねた広告看板へと展開されていった、という見方もできるのです。

詳しくは、当ブログの次の記事をご覧ください。
(参照先 明治期の新聞にみる仁丹広告(6)  明治期の新聞にみる仁丹広告(7)


以上のとおり、重箱の隅をつつくようなことばかり記しましたが、でも、唯一の公式見解には何らかの根拠があっはずです。そしてそこには真実の一端が潜んでいるとも言えるでしょう。本当に名古屋や東京にもあったのか?本当に関西以外の津々浦々にもあったのか?今後のさらなる研究が待たれるところです。


しかし、この後、驚きの出来事や研究結果が!

-つづく-

~京都仁丹樂會shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 07:10Comments(6)基礎研究