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2016年05月14日

仁丹町名表示板 京都だけなぜ? ~後編~

仁丹町名表示板 京都だけなぜ?

~後編~


京都市の仁丹

前編では各都市の町名部分の凹凸状況をご紹介しましたが、いよいよ我々のメインテーマである京都市の特徴です。見れば見るほどに、いくつもの特徴、新たな疑問が生まれます。




<なぜ? 1> 住所表記に凹凸なし

見た感じでも分かるのですが、住所の黒い文字部分に手を添えても、凹凸は全く感じません。手に触れられるものは極力確かめましたが、感覚的に“高低差”はゼロなのです。この点が他都市のものと歴然とした違いなのです。



ちなみに、凹凸のみならず、触っても“ここからが文字だ”というような明確な感覚の違いを抱くこともまずありませんでした。つまり明らかに摩擦係数が変わるということもないのです。ただ、昭和6年4月に京都市に編入され最初から「左京区」「右京区」の表記となっている“昭和6年組”のひとつ「右京区秋街道町区域」は高低差は感じないものの、まるでサンドペーパーでも触っているかのようにザラザラとしました。もしや“昭和6年組”の特徴かと興味を持ちましたが、その他のものも触った結果、そうでもありませんでした。



また、商標の部分は、他都市と同様に白をベースとして青色・赤色がふっくらと盛り上がっていて、型にそれぞれの色の釉薬を流し込んだのであろうことが伺えます。



京都市の琺瑯製仁丹町名表示板の“高低差”をまとめると、感覚的には青・赤>白・黒 となりますが、次のような破損部分から覗く“断層”を見ると、先ず鉄板があり、その上に白、そしてその白の上に黒や青や赤があることが分かります。




<なぜ? 2> 書道のような書きっぷり

京都のもうひとつの大きな特徴は住所部分が『手書き』としか見えないことです。型を使っていたとは思えません。書道をしたことのある方なら納得していただけるでしょうが、はね、はらい、筆圧の加減などが書道そのものなのです。



しかも、一息で書いているようです。筆の毛、筆の運びまで分かります。何度も塗りたくったような形跡が見られません。線の重なり具合を見ると、書き順も手書きそのものであることが分かります。



一方、平成の復活バージョン第1号として製作された次の仁丹は住所部分をアップで見ると何度もペンキを塗ることで、遠くから見たら書道風に見えるよう描かれています。



この平成復活バージョンや鞆の浦の仁丹町名表示板を手掛けられた八田看板さんに、以前、じっくりとお話しを伺う機会がありました。

先ず京都の琺瑯製仁丹町名表示板を見て、看板制作の立場からどのような印象をお持ちなのか? また、琺瑯の上から文字がスラスラと弾けることなく書けるものなのか? をお尋ねしたところ、あくまでも現在の技から見てという前置きでしたが、次のような大変興味深いことをお聞きできました。

『手書きであり、筆使いが書道そのもの。看板屋のものではない。そもそも看板屋の筆ではあのようには書けない。書道の乗りでサッと書かれていて全体に流れがある。看板の場合は一字一字が独立していて完璧であるが、仁丹の場合は看板屋ならこうするという箇所が多く、字体や空白のバランスなどに不満を抱く。

平成の復活バージョンは、ペンキに硬化剤を混ぜたもので書いたが、筆と墨の組み合せのように書けるものではない。筆に含まれたペンキがどんどん乾いていき、何度もペンキを含ませなければならなかった。鞆の浦のものは紙に書いた手書きの原稿を撮影して型をとったので琺瑯で処理しているのだろう。現在の合成樹脂のペンキでは直接書くことはできないが、昔は黒鉛と植物性のボイル油を混ぜた二液性の塗料を使っていたらしく、それなら書けるのではないか。』


といったものでした。
ちなみに、鞆の浦の文字部分は次のようになっています。白い部分に黒い文字がベタッと一定の肉厚をもって盛られていることが分かります。前編で見たように黒い文字が白の部分に比べて窪んでいるというパターンの逆です。製作工程が一部違うと言えるのかもしれません。




<なぜ? 3> 輝き、ツヤがない

大津市、奈良市、大阪市の黒い文字部分は光を反射するような輝きがあるのですが、京都市のものは基本的にツヤを感じません。まるでツヤ消しタイプの塗料のようです。琺瑯ならば周囲と同様にもっと輝いてもよさそうに思うのですが。これは釉薬の調合の具合なのでしょうか? サッと書いたがための薄さが原因なのでしょうか? それとも単なる経年による劣化なのでしょうか? いずれにしても京都市の特徴のひとつといえます。


輝きを見せる3都市の文字部分(左より順に大津市、奈良市、大阪市)
   


周囲と比べてツヤを感じない京都市


<なぜ? 4> 濃淡のムラ

さらに一文字一文字を見ていると、一部の個体では、一文字の中でも濃淡にムラがあるものがあります。大津市、奈良市、大阪市のように均一の黒さではないのです。
どうも、筆を止めて抜く箇所で白くなっている傾向が顕著です。これはどのような物理現象なのでしょうか?




<なぜ? 5> 劣化のムラ

90年以上風雨に晒されても丈夫で長持ちと当ブログでも頻繁に言ってはきましたが、確かにほとんどが当てはまるもののごく稀に不思議に劣化したものが見受けられます。

次の仁丹などはまさしく西側半分だけが劣化しているのです。




これ1枚だけなら、西日が原因だと結論付けてしまいそうですが、次の仁丹などは西日が当たる側は劣化せず、逆にそもそも西日が全く当たらない東洞院通側のものがひどく劣化しています。




西日が当たる場所だから、雨がよくかかる場所だから、といわれることもありますが、そのような場所でも美しいものは美しいままですから、どうもそうでもなさそうです。

それどころか、劣化の激しい個体はエリアに関係なく分布しています。



工場でしっかりと琺瑯が焼成されたものとするならば、このような不均一さが不思議でなりません。釉薬の調合に問題があったのでしょうか? 焼成の際の温度や時間に関係しているのでしょうか? 単なる品質管理の問題として片づけられるものなのか、不思議です。

※     ※     ※


黒色で描かれた住所部分も琺瑯である、だから工場で高温で焼成しなければ完成とならない、ということを否定しようとするわけではありませんが、以上の様に、だとすればこれはどう解釈するの?という新たな疑問がいくつか現れました。正直なところどうもすっきりしません。

そもそも、京都市のものだけがなぜ手書きだったのか? なぜ凹凸を感じないのか? すなわち、これらは京都市のものだけが製法が異なっていたということを物語っているのではないのでしょうか? では、なぜなのでしょう? 設置方法を考えるとき、この疑問を解いておきたいところです。

琺瑯看板が普及し始めたのは大正時代の末とされ、京都市の琺瑯製仁丹町名表示板は大正14年~昭和3年頃、伏見市が昭和4年~6年、京都市の市域拡大に伴う“昭和6年組”が昭和6年頃に製作されたと考えられます。そして、戦時中の空白期間を経て、大津市、奈良市、大阪市、八尾市が戦後の全盛期。

こうして順序立てて考えると、現時点で他の例が発見されていないことから、もしかしたら京都市のものは本邦初の琺瑯製町名表示板であった可能性もあります。少なくとも黎明期ではあったでしょう。でも、この時期、すでに右横書きの『たばこ』、鈴木商店時代の『味の素』、コーモリ印の『日本石油』など一般的な琺瑯看板の大量生産はなされており、しかも伏見市が型を使っていることを考えると、京都市においても型を使うという選択肢はあったはずです。にもかかわらず『手書き』となったのはなぜなのでしょうか?



そこで、現時点で分かっていることを組み立てて、次のような空想を楽しみました。もちろん根拠のない全くの想像です。

“琺瑯製町名表示板としての黎明期、とある業者が京都市のものを大量に受注した。しかし、やたらと文字数が多く、フォントの大きさも3、4種類は必要だった。納期もあまり余裕がない。この状況を打開するのが『手書き』だった。従来の木製は手で書いていたのだから、なんだかんだしているよりも手で書けばいいじゃないか、その方が早いじゃないか、と案外あまり悩むこともなく手書き対応となった。”

でも、伏見市は型を使い、その後の“昭和6年組”では再び手書きに戻るという不思議を説明できません。“昭和6年組”は伏見市と同様に数文字の住所表記だからです。京都市は同じ手法で統一という流れだったのか、それとも業者の違いによるものだったのか、これもまた解決したい課題です。そもそも京都市のものがひとつの業者によるものなのか複数の業者によるものなのかも分かっていません。

この空想、今後の新事実判明とともに軌道修正をしながら継続するかもしれませんし、あるいは「なんだ」というような想定外の真相に取って代わられるかもしれません。

※   ※   ※


その昔、琺瑯の釉薬と筆で文字を書く職人さんがいたという話が琺瑯製品に関わる業界の方から出てきました。まだ裏付けは取れていませんが、先輩の技を見て覚えるという職人さんの世界のことなら、記録も残されないまま廃れてしまったが、当時としては当たり前の何らかの技があっても不思議ではありません。

京都市のものだけが持つ前述のような特徴は、何を意味するのか? これらの謎を解くため、今、大正~昭和初期における琺瑯看板の製作技法をはじめとして多方面から調べていますが、なかなか一筋縄ではいきません。

京都仁丹樂會 shimo-chan
  
タグ :琺瑯


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:39Comments(2)永遠のテーマ

2016年05月12日

仁丹町名表示板 京都だけなぜ? ~前編~

仁丹町名表示板 京都だけなぜ?

~前編~




このような一般的な琺瑯看板は全く同じものを何枚も製作するわけですから、最も合理的な手順で工場で大量生産され、設置先を求めて全国各地へと送り出されたことでしょう。また、製作枚数や送られたエリアは予算や販売戦略に拠ったことでしょう。

しかし、町名表示板となると、事情はかなり違ってきます。個々に異なる町名を入れなければならない、同じものは何枚も要らない(おそらく一桁?)、設置先は限定、といったほとんど注文生産のような世界のはずです。

琺瑯製の仁丹町名表示板は、京都市の他に伏見市(現在は京都市伏見区)、大津市、奈良市、大阪市、八尾市、そして福山市の鞆の浦にあることが確認されていますが、その住所表記の文字部分は京都市のものだけがなぜか特異なのです。どう見ても手書きであり、しかも凹凸を全く感じないのです。

当ブログの 『コペルニクス的転回となるか!?』 で提言されたとおり、今、「リヤカー説」や「工場説」について改めて考え直さなければなりません。そのためには、京都の琺瑯製仁丹町名表示板がどのような材料で、どのような手順で製作されたかを正確に知っておくことが不可欠でしょう。それはすなわち、設置時期となった大正晩年から昭和初期における琺瑯看板の製作技法を知ることから始まるかと思うのですが、それがなかなか難しそうです。

何はともあれ、先ずは京都市と他都市との違いを明らかにするため、各都市の住所表記の部分を詳細に見ていきましょう。


※     ※     ※


伏見市の仁丹

伏見市とはいっても現在の京都市伏見区の一部のことです。伏見市は昭和4年5月1日に誕生し、昭和6年4月1日に京都市に編入されたのでわずか1年11ケ月だけ存在した市です。したがって、伏見市の仁丹町名表示板はその間に製造され設置されたものとなります。

町名部分を手で触ってみると、白い琺瑯をベースとするならば、青い文字部分はその上にぷくっと盛られた形で膨らんでいます。その様子、斜めからのアングルでお分かりいただけるでしょうか?



ちなみに、商標部分の青色も赤色も同様に白の上にありました。

これら“高低差”の関係は、青・赤>白 といったところです。
この順序は次の写真のように、破損部分から覗く“断層”からも分かります。



ところで、町名部分の毛筆体フォントは型が使われているようです。
次の写真をご覧ください。同じ町名の仁丹とメンソレータムですが、町名の文字が両者全く同一のようです。表示板全体のサイズや造りも酷似しているので、おそらくは同じ業者により製作されたものではないでしょうか?





大津市・奈良市・大阪市の仁丹

次に大津市、奈良市、大阪市の仁丹町名表示板です。いずれも白地に、町名部分は黒い文字で、縁取りも黒です。


左より順に 大津市、奈良市、大阪市


町名部分の様子ですが、周辺の白い部分に比べて明らかに窪んでいるのです。周囲の白い部分よりも1mm程度凹なのです。下の写真からもお分かりいただけるかと思いますが、伏見市の凸とは正反対に、これらの都市では凹となっています。




商標の部分はというと、白をベースにして赤の部分は盛り上がり、「仁丹」なる黒い文字は町名と同じく窪んでいました。




これら大津市、奈良市、大阪市における“高低差”は、赤>白>黒 の関係にありました。


ところで、大津市の「膳所網町」なる町名は昭和26年~39年の期間存在しました。大阪市の「南中道町四丁目」は昭和7年~45年の期間存在しましたが、昭和20年に空襲で罹災した一帯であり、さらに大阪市の他のものには昭和26年と刻印された設置許可のプレートも見られます。また、『日常保健に』や『仁丹歯磨』なるコピーはいずれも左横書きであることから、これらの都市の琺瑯製仁丹町名表示板はいずれも戦後の琺瑯看板全盛期のものと考えてよさそうです。


八尾市の仁丹

当ブログでは初めてとなりますが、一応、八尾市にも仁丹町名表示板があります。ただし、ご覧のとおり、趣きは随分と違います。横500mm縦195mmの横長で、大礼服のあの仁丹の商標はありません。



文字の凹凸は、上部7割程度を占める町名部分については白い文字が緑をベースとしたら窪んでいます。下部3割程度を占める広告コーナーは、白をベースとして緑の文字も赤の文字も凸の状態でした。
つまり全体をとおして白色の上に、緑色と赤色が盛られたようになっており、“高低差”は、緑・赤>白 といったところです。



全ての文字が左横書きであること、そして映画の全盛期を思わせるコピーなどから、当然戦後の製作でしょう。


※     ※     ※


鞆の浦については後編でご紹介しますが、そもそも一般的に琺瑯看板の製作時期については戦前の大正末期~昭和初期、戦後の昭和30年代~40年代に集中します。この両者の間には、戦時中の資材不足などによる長い空白期間があります。

ここでご紹介した仁丹町名表示板は、伏見市は戦前組、大津市・奈良市・大阪市・八尾市は戦後組となります。もちろん京都市も戦前組です。長い空白期間と社会情勢の大きな変化を挟んだ、戦前組と戦後組の製法は全く同じだったのでしょうか? 戦前組の京都市は文字部分がフラット、伏見市は凸、戦後組はすべて凹という特徴は、試行錯誤的な時代と製法が確立した時代の違いを示しているのではないかと考えるようになりました。

それでは、私たちのメインテーマである京都のものはどのような特徴を持っているのでしょうか? 後編で詳しく見て行きたいと思います。

~つづく~

京都仁丹樂會 shimo-chan

  
タグ :琺瑯


Posted by 京都仁丹樂會 at 05:24Comments(0)永遠のテーマ

2016年02月16日

コペルニクス的転回となるか!?

コペルニクス的転回となるか!?
-パラダイムの転換を迫られる-


「コペルニクス的転回」というのは、よく知られるように、見方や考え方が 180°(全く正反対に)変わることの喩えであり、哲学者カントが自身の認識論を言い表した言葉です。

京都における仁丹町名表示板は、どのように製作・設置されたのか?
京都仁丹樂會の内部では、これについて二つの説がありました。
それは、「リヤカー説」と「工場説」です。
前者は、リヤカーで設置する現場に白地の表示板を持ち込み、現地で町名等を記入して直ちに設置して廻ったというものです。それに対して後者は、文字通り工場で町名表示板を製作したうえ、現地に運んで設置したというものです。
そして、その間の経緯は必ずしも定かではないのですが、二説のうち「リヤカー説」が有力説とされてきた(ようなのです)。
私自身は、「リヤカー説」には組せず、「工場説」を主張していました。

ところが先頃、京都市産業技術研究所研究員の方が仁丹町名表示板を分析調査したところ、文字の部分は墨やペンキなどで書いたのではなく、黒琺瑯であることが判明したと云うのです。
これは、有力説とされてきた「リヤカー説」が成り立たないことを意味しています。
つまり、仁丹町名表示板の「造り」そのものについての見方が、従来の「リヤカー説」から「工場説」へと、ちょっとしたコペルニクス的転回をもたらしそうな気配なのです。



琺瑯加工しても経年変化で褪色してしまう不良品が稀にあるようです


かつて、《パラダイム》という言葉が学問の世界で広く使われました。
元々は物理学が専門だったのですが、科学史・科学哲学に専攻をシフトしたトマス・クーンというアメリカの学者が『科学革命の構造』という著書で、「パラダイム」に新しい意味をつけました。門外漢である私の浅薄な理解ですが、クーンのいう《パラダイム》は、「真理や教説といったものもやはり時代の影響を受けるため、いつの時代にあっても常に正しいと云うわけではない」と云うような意味として受け取っていました。
1960年代後半からのベトナム反戦・反公害闘争・学園闘争が高揚した頃、学問の問い直しと言ったことが厳しく議論されました。そのような中、自然科学だけではなく社会科学の分野でも、「パラダイム転換」ということが喧しく云われ、大流行することとなりました。
「パラダイム転換」というのは、抜本的な変革を必要とするときに、「思考の基本的枠組み」の転換、と言ったような意味で用いられるようになったのです。

閑話休題。
長い間、京都仁丹樂會で有力説とされてきた「リヤカー説」の想像させる情景は、のどかでほのぼのとしており、何となく郷愁を覚える説でした。しかし、これがどうも成立し難い見込みとなって来つつあるのです。
こうして、再び「工場説」が浮上する気配を見せるいま、改めて両説をきちっと見直すべき時期に差し掛かっているいるように思われます。
両説の見直しを進めるためには、パラダイム転換が必要となっているようです。

~京都仁丹樂會 酒瓮斎~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 22:43Comments(0)永遠のテーマ

2015年12月30日

黒い文字も琺瑯?

黒 い 文 字 も 琺 瑯 ?



琺瑯看板の一種である仁丹町名表示板。
すでに新聞報道でご存知の方もおられるかと思いますが、その町名の黒い文字の部分も琺瑯であると発表されました。



~2015年11月6日 京都新聞~




~2015年11月14日 毎日新聞 京都地方面~



京都のまちかどでいつも美しく輝いている仁丹町名表示板が設置されたのは大正14年から昭和3年頃までと考えられます(参照:仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑬まとめ)。
間もなく100年を迎えるのです。
その後に登場した仁丹以外の町名表示板の中にはすでに使い物にならないほど劣化しているものがあるにもかかわらず、仁丹の町名表示板はいつまでも美しさを保っています。その不老長寿の秘訣は一体何なのか? もちろん、本体部分は琺瑯引きだからというのはあるでしょうが、その場その場で違ってくる京都独特の住所表示の部分、あまりにも的確に筆で書かれているので、その手書きの部分がなぜもこう耐久性があるのか、そこが疑問だったのです。

ただし、このような疑問を持つ背景には、工場で完成させてから現場に運び込むよりも、現場で書いてそのまま設置した方が合理的だ、だから京都の仁丹町名表示板の住所部分は手書きなのだ、そのための特殊な墨かペンキがあったのでは、という先入観を持っていたことは否めません。

※    ※    ※


そこで、科学的な根拠を求めて、京都市産業技術研究所に相談を持ちかけたのが、今回報道されたことの始まりとなりました。試験に供するとなると、やはり実物をある程度傷つけることになりますが、提供したのは次のようなものでした。


20年ほど前のことでした。すでに上半分がなくなっており、植木鉢の受け皿として廃品利用されていました。その場所も大宮御池と本来あるべき場所でもなく、町名表示板として機能していなかったものを要らないからということで譲り受けたものだったのです。

※    ※    ※

しかし、分析結果は意外にも町名の文字部分も黒い琺瑯ではということでした。黒い琺瑯とは焼成して黒く発色する琺瑯のことなのですが、琺瑯となれば一般に800~1000度で焼成する工程が必要となります。となると、現場で書いてそのまま設置するという考え方が成り立たなくなります。

そして、このことは今まで有望視されていた“リヤカー説”が成立しなくなることを意味します。リヤカー説とは文字の書かれていない“白い仁丹町名表示板”をリヤカーにいっぱい積んで、その場その場で的確な住所表示を書き、すぐに設置していくというものです。

“白い仁丹町名表示板”にその場で住所を書くとは、この ↓ ようなイメージです。


~2010年11月27日 京都町名琺瑯看板プロジェクト発表会にて~


リヤカー説は2012年07月14日の当ブログ記事『永遠のテーマ 設置方法』で紹介し、そして熱いコメントが続きました。
もちろん、それは無理がある、やはり工場でしっかりと完成させてから現場へもちこんだのではないかという“工場説” も根強くありました。しかしながら、なんともほのぼのとしたリヤカー説の面白さが目立った感がありました。

※    ※    ※

そもそも記録らしい記録がなく、多くの謎に包まれた京都の仁丹町名表示板、フィールドワークだけでは解けない謎をぼんやりとした叩き台から考え、新たな事実が分かればそれに基づいてピントを修正、少しずつ真相の輪郭をシャープにできればという方針で今まで活動してきましたが、今回の分析結果はまさにその節目となりそうです。

もし、工場で完成したものを現場に持ち込んだとするならば、昭和4年4月1日までの京都市域を網羅する非常に数も多く繊細な住所表示を事前にどのように調べたのか、そしてそれらを的確な場所に運ぶのはどのようにしたのか、制作後に設置の承認が現地で得られなければどうしたのか、京都だけ他都市と違う製法(他都市の仁丹町名表示板の町名部分は型抜きしたように凹凸があるが、京都のものはフラット)はなぜなのか、などなど新たな疑問が再び噴出してきます。このような疑問を丸く収めたのが先のリヤカー説だったのですが、今一度、仕切り直しをするべきという結論に至りました。

一方で、改めて考え直すには大正から昭和初期における琺瑯看板の製造技術も当然ながら知っておかなくてはいけません。これがなかなか手強いようです。

さて、もうすでに京都仁丹樂會の会員はそれぞれの視点で新たな推察を試み始めています。来年は、関連の話題で賑やかになろうかと思いますので、お楽しみに。

~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:00Comments(2)永遠のテーマ

2013年12月15日

永遠のテーマ 木製仁丹 謎の記号

謎多き仁丹町名表示板の研究課題の中でも、おそらく解明できないであろうという課題に対して、「永遠のテーマ」なるカテゴリーを与えています。

第一弾は、永遠のテーマ 商標の上と下
第二弾は、永遠のテーマ 設置方法    でした。
            ↑ 青字の部分をクリックすると記事にリンクします。以下も同様です。 

さて、今回は第三弾です。
それは木製仁丹の左下に記されている記号です。

琺瑯製には見られない不思議な記号が、木製仁丹には見られるのです。
とは言っても、木製仁丹自体がほとんど姿を消してしまい、残っていたとしても色褪せていて読み取れない場合が多く、判読可能なものとなると限られてくるのではありますが、とりあえず以下のようなものがあります。


先ずは、ご存知、西陣の慈眼庵町ですが、この左下に目を凝らすと、菱型の枠の中に『六.八』と読み取れる記号が見られます。




次に、昨夏、突如としてお地蔵さんの裏から出現した上柳原町にも同じく菱型の枠に『六.』と読める記号があります。残念ながらの部分は解読できませんが。




さらに、東福寺の上野酒店さんで保管されている本町十七丁目では、丸の枠内に『五.十』と記されているようです。




※     ※     ※


さて、これらの記号は一体何を意味しているのでしょうか?

単なる設置する側の整理番号でしょうか?
それとも、設置を認めた許可番号みたいなものなのでしょうか?
菱型枠と〇枠との違いは何か意味があるのでしょうか?

西陣学区の慈眼庵町が    六.八
室町学区の上柳原町が    六.
月輪学区の本町十七丁目が 五.十

昔の番組の番号であるとか、学区に起因する番号ではなさそうです。

idecchiさんの研究発表 明治期の新聞にみる仁丹広告(7) では、少なくとも明治44年以後は管轄の警察署から許可を得なければならなかったようです。
その関係の番号なのでしょうか?
大阪の仁丹町名表示板の場合は、認可に関わる金属製のプレートが一緒に設置されているように、それと同様のものなのでしょうか?

認可された時期が大正6年8月とか大正5年10月なのでは?と考えれば記号の意味は通りますが、でも、これもidecchiさんの発表 木製仁丹設置時期の裏付け発見 2/2 で大正元年から2年という早い時期から御大典の大正4年までにほぼ設置を終了していたと考えてよさそうなので、大正5年、6年というのはいささか該当しそうにありません。

ということで、推理を試みるも、やはり迷宮に立ち入ってしまいました。
それにデータが3つだけというのも無理があります。とは言っても、データ数は今後も期待できませんが。

みなさんの推理はいかがでしょうか?

京都仁丹樂會 shimo-chan

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 22:31Comments(4)永遠のテーマ

2012年08月26日

永遠のテーマ 商標の上と下

※当記事は2012.9.1上書き訂正をしました。
詳しくは2012.9.1付コメントをご覧ください。


仁丹探しをされた方ならば、必ず気付くことに商標の位置の違いがあります。

森下仁丹株式会社の商標、すなわち”ビスマルク”とか”薬の外交官”などと言われている例のカイゼル髭のおじさんのマークのことですが、表示板の上端にある「上タイプ」と、下端にある「下タイプ」の2つのバージョンが存在するのです。



「上タイプ」は上京区に多く存在するのですが、よくよく見ると中京区や左京区でも見られます。

商標の上と下。
なぜなのか分からないのです。今のところ、解決が見込めない”永遠のテーマ”なのです。


そこで、少し踏み込んで検証してみました。

先ずは統計資料からです。
私たちがかつて存在を確認した琺瑯仁丹の数は1264枚です。この数字には平成の復活バージョンは含んでいません。
このうち、「上タイプ」が266枚、「下タイプ」が998枚という内訳です。
「上タイプ」はおよそ21%を占めることになりました。


~2012.9.1現在 京都仁丹樂會調べ~


この「上タイプ」266枚について、さらに詳しく分布を調べてみました。
例のごとく学区単位で集計してみたら、先ずは上京区の場合、次のような興味深い結果が得られました。


~2012.9.1現在 京都仁丹樂會調べ~


「上タイプ」しか確認できていないのが、嘉楽、桃薗、小川、京極、正親、聚洛、中立の各学区。
原則として「上タイプ」だが、一部「下タイプ」も見られるのが、成逸、乾隆、西陣、翔鸞、待賢の各学区。

一方、すべてが「下タイプ」なのは、室町、仁和、出水、滋野、春日の各学区。
原則として「下タイプ」だが「上タイプ」も一部混在するという学区はなし。

とにかく、現時点でのデータではこのようになりました。

これらを地図で表現してみると次のようになります。ベースとなっている学区地図は、上京区役所HPのものを利用させていただきました。



いかがでしょうか?
学区単位で集計を取ることが果たして良いのかどうか分かりませんが、なんだか学区単位で設置が進んでいったのではないかということを強く連想させる結果となりました。
少なくとも「上タイプ」と「下タイプ」をランダムに設置していたとは思えません。

もし、「上タイプ」と「下タイプ」とで、設置された順番があったとしたならば、それはやはり「上タイプ」が先だったのではないでしょうか?
理由は、木製が基本的に上だったのでそれを踏襲した可能性があること、明らかに後から設置されたロクヨンイチ組の右京や左京が下であったことからです。
そして、「上タイプ」が先に設置されたのであれば、学区地図における青と水色の両エリアで先ず設置が進み、その後何らかの理由で「下タイプ」に変更されて茶色のエリアを設置、さらに水色エリアにおける追加分が「下タイプ」であった。このような推理の道筋が成り立つのではないでしょうか。

ちなみに、成逸、乾隆、西陣の各学区では原則として「上タイプ」ですが、1枚だけ「下タイプ」が混じっています。
気になるでしょうから、ここに紹介しておきます。



また、翔鸞学区の9枚も気になりますよね。
上七軒の真盛町4枚と社家長屋町2枚、突抜町1枚、西今小路町1枚、そして御前今出川上ルの北町が1枚です。

最後の御前今出川上ルの北町については琺瑯仁丹が3枚確認できており、そのうちの1枚のみが「下タイプ」なのです。
次の写真のとおりです。




次に上京区以外の分析です。

中京区では現時点では城巽、龍池、初音の3学区のみに「上タイプ」が存在している結果となりました。次のとおりです。

~2012.9.1現在 京都仁丹樂會調べ~

ここにも学区単位という結果が顕著に表れました。非常に興味深い結果です。
初音学区に「下タイプ」が1枚確認できましたが、城巽・龍池学区は現在のところすべて「上タイプ」しか確認されていません。

これら3学区の位置関係は次のようになります。この学区地図も中京区役所HPにあったものを利用させていただきました。



中京区の真ん中の隣接した3学区にのみ「上タイプ」が色濃く存在しているとは、ここでもやはり学区単位での設置計画があったのでしょうか。
念のため周囲の学区を点検してみましたが、やはり現時点では「上タイプ」はこの3学区でしか確認されていませんでした。

なお、初音学区の下タイプ1枚は次のものです。




あと、左京区は次のとおりです。


~2012.8.8現在 京都仁丹樂會調べ~


実は左京区の場合、「上タイプ」は新洞学区にしか存在しないのです。しかし、100%「上タイプ」なのです。
地図はありませんが、新洞学区というのは三条京阪の北側から二条通りまでの学区で、新〇〇通がいっぱいある一画です。

※      ※      ※


以上のことから、謎を解くまでには行きませんでしたが、「上タイプ」はどうやら学区単位で集中していることは言えそうです。

※      ※      ※


ところで、なぜ「上タイプ」と「下タイプ」が存在するのか?
以前、当ブログでもやりとりのあった、いくつかの説を、ここで改めて紹介しておきます。

≪上京・下京 一目瞭然説≫
上京区と下京区しかなかった昭和4年以前、上京区は商標を上に、下京区は商標を下にして一目瞭然にしようとしたのではないかという説。もしかしたら、そのつもりで設置を始めた可能性もなきにしもあらずだが、現状を見れば成り立たず。

≪上から目線説≫
一般の縦長の琺瑯看板では、商標の位置は圧倒的多数が上である。だから、仁丹町名表示板も当然のように上に付けた。しかしながら仁丹の場合は髭を生やした威厳のある人物であった。上から見下ろしているのがけしからんとなったので、途中から下につけるようになった。森下仁丹の商標自体も、世の中の空気を読んで髭の長さを短くしているなど、上から目線の是正もあったのではないかという説。

≪宣伝効果説≫
京都の仁丹町名表示板は、大津や奈良と違って90センチの長尺である。それがむしこ窓に設置されたら、上端の商標が軒下の影になって目立たない。広告がより目立つようにと下にしたという説。

≪デザイン説≫
単なるデザイン上の問題。上にあるより下にある方がバランスがよかろうという説。

ということで、いずれの説も決め手がありません。謎は謎のまま、やはり”永遠のテーマ”でしかないようです。
みなさんはどのようにお考えでしょうか?
  


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2012年07月14日

永遠のテーマ 設置方法

~当記事は6月30日にアップした同名記事をリニューアルのうえ、再アップしたものです~



記録らしい記録が全くと言ってよいほど残っていない、謎だらけの仁丹町名表示板。
基礎講座シリーズでは、それを「現状」と様々な「資料」から解き明かそうと試みました。そして、ある程度の結果が得られたのではないかと思います。

しかし、そのような手法ではどうしても解決できないであろう、迷宮入り確実ではないかというテーマもいくつかあります。もうみんなで寄って集って想像するしかない、そんな「永遠のテーマ」をいよいよ扱って行きたいと思います。

先ずその第一弾は、 「設置方法」 です。

京都に設置された琺瑯仁丹は、数千、もしかしたら万にも達するかというような膨大な量です。
しかも、住所表記は詳細で、柱のどの面に付けるかも決まってしまうほどの繊細さです。
これらを大阪の森下仁丹はどのように設置していったのでしょうか?その手法、ノウハウを想像を巡らせて考えていきましょう。
*        *        *

もし、今、同じようなことをするなら、次のような手順を踏むのではないでしょうか?

先ず、行政上の手続きが必要かどうかを調べ、必要であれば行う。
そして、設置するべきポイントを選定する。
一方的に選定しても、協力が得られなければ設置できないので、事前に家屋の所有者に承諾を取る。また、住所の表示がこれでよいのかという確認もする。通り名を使うエリアにおいては、設置場所が限定されるので、特に承諾と表示のチェックが大切でしょう。
以上が整って初めてGOサインが出たことになり、いよいよ表示板を発注して制作する。
完成したら現地へ持っていき、取り付ける。

今回の平成の復活バージョンでは、先ず設置希望の町内会を募集し、そして選定。住所表示をチェックしてから制作、そして完成品が宅急便で現地へ送られ、設置も現地でお任せといった手順でした。

しかし、昭和の初期という環境において、大阪にある森下仁丹が果たしてこのような手間のかかることを行ったでしょうか?
*        *        *

この永遠の謎に対し、昨年6月、「京都仁丹樂會について」のコーナーで、ずんずんさんと酒瓮斎さんによる、非常に興味深いやりとりがありましたので、この場で改めて紹介させていただきます。

2011年06月15日、ずんずんさんが次のような仮説をコメントとして披露してくださいました。これを「リヤカー説」と名付けたいと思います

【リヤカー説】
無地の琺瑯仁丹をリヤカーに積んで市内を巡り歩きながら、現場で住所を書いて、すぐに設置していった。


その根拠はこうです。

(1) 仁丹の住所表記と、設置場所の関係が、非常に繊細であること。
大量かつ繊細な住所表記のものを看板工場ですべて完成させてから出荷していたのでは、設置場所へ正しく運び届けるだけでも相当な苦労であり、まして、事前に工場に対してそれだけの施工指示書を作らなくてはならない。

(2) 京都の仁丹町名表示板だけ、住所の文字が釉薬による琺瑯でないこと。
伏見市・大津・奈良・大阪の住所表記の部分は琺瑯処理されているが、京都はされていない。それは、他都市の住所が至って簡単であり、例えば一町に3枚設置と決めてしまえば、工場で同じものを3枚ずつ製作し、琺瑯処理を施してから出荷することができた。


いかがでしょう、このリヤカー説。
最初は正直なところ、なんと無計画で非効率的なという印象を持ちましたが、よくよく考えてみれば、京都の場合はむしろこの方法こそ極めて現実的かつ効率的だと考えるに至りました。
今日はここ、明日はこのエリアと計画して、練り歩くわけです。私たちも似たような方法で余暇を利用して仁丹探しをしたことを思えば、毎日毎日仕事として練り歩けばできるではないかと。

これに対する酒瓮斎さんの2011年06月16日のコメントは、このリヤカー説をさらに鮮明に浮き出させてくださったと思いますので、次にご紹介します。
『出向いた現場で無地の琺瑯表示板に住所表記の部分を書き入れ、その場で次々に設置していった。そのため、文字部分の琺瑯化を省略した。(せざるを得なかった?)そのように柔軟な作製・設置方法をとったことにより、個別の設置地点と表記がピッタリとそぐうものとなり、また、膨大な枚数の作製と設置を可能とした。私は、文字部分が流れてしまって殆ど消えているものや薄くなっているものを何枚も見て、琺瑯にしては粗悪な造りだなあと思っていました。しかし、琺瑯処理は下地だけで文字は素ということならば、年寄りの厚化粧のようになってしまうのも、宣なるかな-当然そうなりますよね。設置にあたっては、前もってその地域(町内会など)にきちっと申し入れて、許可を得ると云うようなことは無く、出向いた先の家々で個別に依頼し了解をとった。また、頼まれる方も別に固いことは云わなかったのかも。仁丹町名表示板の設置時期は、大正ロマンー古き良き時代の雰囲気を幾分かを残しながらも、時代の不安を覚えさせるような昭和初期ですね。そのような時代、おっしゃるような遣り方で進められたとすると、頼む方と頼まれる方の関係と云ったものに、なにかこう、ほのぼのとしたものを感じます。何か特別な感慨と云うか情緒を催す説のため、直ちには、瑕や欠点を探す気がしません。』


リヤカー説には、もう少し補強説明をさせていただきたいのですが、長くなりましたので、次回にコメントとしてご紹介します。

~つづく~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 20:57Comments(14)永遠のテーマ