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2023年04月16日

出現する史料 ~木製編~

このところ、「国立国会図書館デジタルコレクション」が順次拡充し、家に居ながらにして、仁丹町名表示板に関連する発見が増えてきています。設置時期やその背景をズバリと明言するような史料にはまだ出会えていませんが、今までの私たちの仮説を補強してくれています。それらをご紹介しましょう。

先ずは木製の仁丹町名表示板についてです。

木製については様々な状況証拠から明治末期から大正の御大典までに設置されたと見ています。すなわち、少なくとも明治45年~大正3年にかけてが極めて濃厚かと考えています。(御大典は大正4年でしたが、これは急遽1年延期されてのことでした)
<参考> 当ブログ 2022/02/18歴彩館の講演会


大正2年 『実業界』7(6)

出現する史料 ~木製編~

『実業界』7(6),早稲田同文館,1913-12. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1564719 (参照 2023-03-12)

大正2年12月に発行されたこの書籍の「旅客の眼に映じた経営振りの数々」という記事です。筆者が同年8月に関西を漫遊した際に印象に残った広告をいくつか報告しており、その中に次のような記述があります。

『京都南禅寺辺を遊覧せる時、仁丹と大書せる下にX町名を記した標札を各辻々に打ち付けおけるを見た。町名標出は其名義好し。単に薬名のみを掲記して広告するよりは、親切気に見えて好いと思うた。』

今とは違う当時の言い回しですが、琺瑯看板の普及前ですから木製仁丹のことを言っているはずです。“仁丹と大書”を仁丹なる商品名と解釈しているようですが、これは商標のことでしょう。そして“下にX町名を記した”のXは様々な町名という変数のつもりなのでしょう。そのようなものが“各辻々に打ち付け”られていたことから、大正2年8月当時、すでに街中の至るところに木製仁丹が設置されていたことをうかがわせます。さらに町名札というのは大義名分で有り、公益性を持たせた広告であると捉えています。


大正3年 実業界 7月号

出現する史料 ~木製編~

『実業界』9(1),早稲田同文館,1914-07. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1564725 (参照 2023-03-08)

同じく「実業界」ですが、大正3年7月発行のものです。P.52「他人の新趣向」なる記事に次のような記述がありました。

『大阪の某大薬店では、京都の市街中四辻には必ず町名札を掲げ、其上に自店発売の薬品を一つ記している。四辻に町名が記してあることは不案内者にとつては非常に便利であるから、其売薬の印象は特に深ひであらう。同じ広告にしては此等は寔に好い思付である。』

どこにも“仁丹”とは言っていませんが、“大阪の某大薬店”、“町名札を掲げ、其上に自店発売の薬品を一つ記して”も前述のケースと同様に仁丹の商標を商品名と捉えているようです。木製仁丹は商標がすべて上端にあるので、木製仁丹を見ての記述に違いないでしょう。“京都の市街中四辻には必ず”という表現からは、碁盤の目のような東西南北の通りが交わる所にはほぼ必ず設置されていたことをうかがわせます。もしかしたら、一つの角に2枚あれば“8枚が辻”もあり得たかもしれません。ここでも“不案内者にとっては非常に便利であるから、其売薬の印象は特に深ひであらう”と好意的に受け止められており、広告益世が体現されているようです。そして、良いアイデアだとも言っています。


大正4年 逓信協会雑誌 7月号(85)

出現する史料 ~木製編~

『逓信協会雑誌』7月(85),逓信協会,1915-07. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2776387 (参照 2023-03-08)

これは大正4年7月発行の「逓信協会雑誌」です。現在の公益財団法人通信文化協会の前身である財団法人逓信協会が発行していた業界誌のようです。そのP.60に「漫録 御大礼前の京都」なる記事がありました。大正の御大典は大正4年11月なのでまさにその直前の京都の様子が次のように記されています。

『京都にては何故か、散水が尠いので道路は極めて塵埃つぽい。處々の櫓下には東京の専用栓の如き水道栓が設けられて居る、是れが散水用の水道と思はれる。仁丹の広告を兼用した町名札と共に、お上りさんの目に附き易い。』

東京から京都へやって来た人が、見慣れた東京の街との比較を色々と記している記事です。当時はまだ道路が舗装されていなかったので埃がひどく、散水用の水道栓が“仁丹の広告を兼用した町名札と共に、お上りさんの目に附き易い”と仁丹町名表示板のように水道栓が多いと表現しています。逆に散水用の水道栓がそんなにあったのかと驚くのですが。また、入洛者のことを“お上りさん”と表現していますが、これは当時の新聞などでも見かける表現で、当時としてはポピュラーな語句だったようです。ちなみに、昭和の御大典に際しては烏丸通など鹵簿の通る行幸路は舗装が命じられます。


大正4年 逓信協会雑誌 12月号(90) 御大禮記念号

出現する史料 ~木製編~

『逓信協会雑誌』12月御大禮記念(90),逓信協会,1915-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2776392 (参照 2023-03-08)

同じく『逓信協会雑誌』ですが、大正4年12月、まさに大正の御大典直後に発行された「御大禮記念号」です。このP.108平安日記には、街の景観に関連させて木製仁丹のことが次のように語られています。

『旅客相手の都市は、先以て旅客に交通上の智識を普及せしむることが肝要也。京都市は此點に於て用意周到という能はざるものあるを思はしむるもの多し。広告と謂はばそれ迄なれど「仁丹」の広告入り町名札が、京の町々の凡てに、衆目に觸るる様掲出せられたるは、旅客に取りて非常なる便宜なりき。一些事と雖当局者の一考に値するものなくんばあらず。』

これまた今となっては難しい言い回しですが、要するに「観光都市は事前に道案内などの設備をしておくことが大切だ。京都市はこの点、あまりなされていない。広告と言ってしまえばそれまでだが、仁丹の広告入り町名札が街の至る所に設置されているのは入洛者にとっては非常に便利だ。些細なことだが京都市も参考にするべきではないのか。」と言ったところでしょうか。これも時期的に木製仁丹でしかあり得ないのですが、仁丹町名表示板が観光都市にあるべきインフラの一種として捉えられている点が興味深いところです。

出現する史料 ~木製編~

国立国会図書館デジタルコレクションは今後も充実していくようですから、これからもまだ新たな史料が登場することが期待できますが、現時点では以上のような史料により、木製仁丹の設置時期が少なくとも明治45年~大正3年にかけてが濃厚という推論を補強してくれています。

~shimo-chan~



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Posted by 京都仁丹樂會 at 11:47│Comments(0)基礎講座設置時期
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