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2016年05月14日

仁丹町名表示板 京都だけなぜ? ~後編~

仁丹町名表示板 京都だけなぜ?

~後編~


京都市の仁丹

前編では各都市の町名部分の凹凸状況をご紹介しましたが、いよいよ我々のメインテーマである京都市の特徴です。見れば見るほどに、いくつもの特徴、新たな疑問が生まれます。




<なぜ? 1> 住所表記に凹凸なし

見た感じでも分かるのですが、住所の黒い文字部分に手を添えても、凹凸は全く感じません。手に触れられるものは極力確かめましたが、感覚的に“高低差”はゼロなのです。この点が他都市のものと歴然とした違いなのです。



ちなみに、凹凸のみならず、触っても“ここからが文字だ”というような明確な感覚の違いを抱くこともまずありませんでした。つまり明らかに摩擦係数が変わるということもないのです。ただ、昭和6年4月に京都市に編入され最初から「左京区」「右京区」の表記となっている“昭和6年組”のひとつ「右京区秋街道町区域」は高低差は感じないものの、まるでサンドペーパーでも触っているかのようにザラザラとしました。もしや“昭和6年組”の特徴かと興味を持ちましたが、その他のものも触った結果、そうでもありませんでした。



また、商標の部分は、他都市と同様に白をベースとして青色・赤色がふっくらと盛り上がっていて、型にそれぞれの色の釉薬を流し込んだのであろうことが伺えます。



京都市の琺瑯製仁丹町名表示板の“高低差”をまとめると、感覚的には青・赤>白・黒 となりますが、次のような破損部分から覗く“断層”を見ると、先ず鉄板があり、その上に白、そしてその白の上に黒や青や赤があることが分かります。




<なぜ? 2> 書道のような書きっぷり

京都のもうひとつの大きな特徴は住所部分が『手書き』としか見えないことです。型を使っていたとは思えません。書道をしたことのある方なら納得していただけるでしょうが、はね、はらい、筆圧の加減などが書道そのものなのです。



しかも、一息で書いているようです。筆の毛、筆の運びまで分かります。何度も塗りたくったような形跡が見られません。線の重なり具合を見ると、書き順も手書きそのものであることが分かります。



一方、平成の復活バージョン第1号として製作された次の仁丹は住所部分をアップで見ると何度もペンキを塗ることで、遠くから見たら書道風に見えるよう描かれています。



この平成復活バージョンや鞆の浦の仁丹町名表示板を手掛けられた八田看板さんに、以前、じっくりとお話しを伺う機会がありました。

先ず京都の琺瑯製仁丹町名表示板を見て、看板制作の立場からどのような印象をお持ちなのか? また、琺瑯の上から文字がスラスラと弾けることなく書けるものなのか? をお尋ねしたところ、あくまでも現在の技から見てという前置きでしたが、次のような大変興味深いことをお聞きできました。

『手書きであり、筆使いが書道そのもの。看板屋のものではない。そもそも看板屋の筆ではあのようには書けない。書道の乗りでサッと書かれていて全体に流れがある。看板の場合は一字一字が独立していて完璧であるが、仁丹の場合は看板屋ならこうするという箇所が多く、字体や空白のバランスなどに不満を抱く。

平成の復活バージョンは、ペンキに硬化剤を混ぜたもので書いたが、筆と墨の組み合せのように書けるものではない。筆に含まれたペンキがどんどん乾いていき、何度もペンキを含ませなければならなかった。鞆の浦のものは紙に書いた手書きの原稿を撮影して型をとったので琺瑯で処理しているのだろう。現在の合成樹脂のペンキでは直接書くことはできないが、昔は黒鉛と植物性のボイル油を混ぜた二液性の塗料を使っていたらしく、それなら書けるのではないか。』


といったものでした。
ちなみに、鞆の浦の文字部分は次のようになっています。白い部分に黒い文字がベタッと一定の肉厚をもって盛られていることが分かります。前編で見たように黒い文字が白の部分に比べて窪んでいるというパターンの逆です。製作工程が一部違うと言えるのかもしれません。




<なぜ? 3> 輝き、ツヤがない

大津市、奈良市、大阪市の黒い文字部分は光を反射するような輝きがあるのですが、京都市のものは基本的にツヤを感じません。まるでツヤ消しタイプの塗料のようです。琺瑯ならば周囲と同様にもっと輝いてもよさそうに思うのですが。これは釉薬の調合の具合なのでしょうか? サッと書いたがための薄さが原因なのでしょうか? それとも単なる経年による劣化なのでしょうか? いずれにしても京都市の特徴のひとつといえます。


輝きを見せる3都市の文字部分(左より順に大津市、奈良市、大阪市)
   


周囲と比べてツヤを感じない京都市


<なぜ? 4> 濃淡のムラ

さらに一文字一文字を見ていると、一部の個体では、一文字の中でも濃淡にムラがあるものがあります。大津市、奈良市、大阪市のように均一の黒さではないのです。
どうも、筆を止めて抜く箇所で白くなっている傾向が顕著です。これはどのような物理現象なのでしょうか?




<なぜ? 5> 劣化のムラ

90年以上風雨に晒されても丈夫で長持ちと当ブログでも頻繁に言ってはきましたが、確かにほとんどが当てはまるもののごく稀に不思議に劣化したものが見受けられます。

次の仁丹などはまさしく西側半分だけが劣化しているのです。




これ1枚だけなら、西日が原因だと結論付けてしまいそうですが、次の仁丹などは西日が当たる側は劣化せず、逆にそもそも西日が全く当たらない東洞院通側のものがひどく劣化しています。




西日が当たる場所だから、雨がよくかかる場所だから、といわれることもありますが、そのような場所でも美しいものは美しいままですから、どうもそうでもなさそうです。

それどころか、劣化の激しい個体はエリアに関係なく分布しています。



工場でしっかりと琺瑯が焼成されたものとするならば、このような不均一さが不思議でなりません。釉薬の調合に問題があったのでしょうか? 焼成の際の温度や時間に関係しているのでしょうか? 単なる品質管理の問題として片づけられるものなのか、不思議です。

※     ※     ※


黒色で描かれた住所部分も琺瑯である、だから工場で高温で焼成しなければ完成とならない、ということを否定しようとするわけではありませんが、以上の様に、だとすればこれはどう解釈するの?という新たな疑問がいくつか現れました。正直なところどうもすっきりしません。

そもそも、京都市のものだけがなぜ手書きだったのか? なぜ凹凸を感じないのか? すなわち、これらは京都市のものだけが製法が異なっていたということを物語っているのではないのでしょうか? では、なぜなのでしょう? 設置方法を考えるとき、この疑問を解いておきたいところです。

琺瑯看板が普及し始めたのは大正時代の末とされ、京都市の琺瑯製仁丹町名表示板は大正14年~昭和3年頃、伏見市が昭和4年~6年、京都市の市域拡大に伴う“昭和6年組”が昭和6年頃に製作されたと考えられます。そして、戦時中の空白期間を経て、大津市、奈良市、大阪市、八尾市が戦後の全盛期。

こうして順序立てて考えると、現時点で他の例が発見されていないことから、もしかしたら京都市のものは本邦初の琺瑯製町名表示板であった可能性もあります。少なくとも黎明期ではあったでしょう。でも、この時期、すでに右横書きの『たばこ』、鈴木商店時代の『味の素』、コーモリ印の『日本石油』など一般的な琺瑯看板の大量生産はなされており、しかも伏見市が型を使っていることを考えると、京都市においても型を使うという選択肢はあったはずです。にもかかわらず『手書き』となったのはなぜなのでしょうか?



そこで、現時点で分かっていることを組み立てて、次のような空想を楽しみました。もちろん根拠のない全くの想像です。

“琺瑯製町名表示板としての黎明期、とある業者が京都市のものを大量に受注した。しかし、やたらと文字数が多く、フォントの大きさも3、4種類は必要だった。納期もあまり余裕がない。この状況を打開するのが『手書き』だった。従来の木製は手で書いていたのだから、なんだかんだしているよりも手で書けばいいじゃないか、その方が早いじゃないか、と案外あまり悩むこともなく手書き対応となった。”

でも、伏見市は型を使い、その後の“昭和6年組”では再び手書きに戻るという不思議を説明できません。“昭和6年組”は伏見市と同様に数文字の住所表記だからです。京都市は同じ手法で統一という流れだったのか、それとも業者の違いによるものだったのか、これもまた解決したい課題です。そもそも京都市のものがひとつの業者によるものなのか複数の業者によるものなのかも分かっていません。

この空想、今後の新事実判明とともに軌道修正をしながら継続するかもしれませんし、あるいは「なんだ」というような想定外の真相に取って代わられるかもしれません。

※   ※   ※


その昔、琺瑯の釉薬と筆で文字を書く職人さんがいたという話が琺瑯製品に関わる業界の方から出てきました。まだ裏付けは取れていませんが、先輩の技を見て覚えるという職人さんの世界のことなら、記録も残されないまま廃れてしまったが、当時としては当たり前の何らかの技があっても不思議ではありません。

京都市のものだけが持つ前述のような特徴は、何を意味するのか? これらの謎を解くため、今、大正~昭和初期における琺瑯看板の製作技法をはじめとして多方面から調べていますが、なかなか一筋縄ではいきません。

京都仁丹樂會 shimo-chan
  
タグ :琺瑯


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:39Comments(2)永遠のテーマ基礎研究