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2011年05月01日

京都仁丹樂會とは




 <京都仁丹樂會とは>
 
  ~京都の仁丹町名表示板をこよなく愛し、研究する人たちの集まりです~

 八十有余年もの永い歳月、色褪せることもなく京都のまちを京都のひとを見続けてきた仁丹町名表示板。それは道行く人に住所を教えるだけではなく、京都で生まれ育った私たちオジサンも知らなかったような京都の歴史や素顔もいっぱい教えてくれます。
 「京都仁丹樂會」とは、そんな仁丹町名表示板の奥深さの虜になり、探索と研究を行うことをライフワークにしている人の集まりです。そして、共同作業によりその謎を紐解き、現状を把握し、さらには京都の文化財としての保全活動もしたいと考えています。
なお、法人などではなく、現在のところ単なる同好会、サークルといったところです。




 <誕 生>
 
  ~「京都琺瑯町名看板プロジェクト」で集合、そしてネットワークへ~

 事の始まりは、昨年(平成22年)の夏のことでした。森下仁丹株式会社さんが、“保全と復活を目的”とした「京都琺瑯町名看板プロジェクト」なる活動を開始され、私たちにも地元のファンとしての意見を求められました。そこで、「京都ずんずん」で仁丹町名表示板のことを熱く語っていた当時のアクティブメンバーが急遽集まりました。でも、その時点では単に“マニアの方々”と呼ばれるしかありませんでした。そこで、これを機会に様々な年代、職業、見識を持った人たちが集まったことを生かし、単独の活動からネットワークへと発展させて、“三人寄れば文殊の知恵”的にひとりではできないことをみんなの力を合わせることでやろうじゃないかとなったのです。それが「京都仁丹樂會」の誕生です。
ネーミングについては、あくまでも趣味で楽しんでいることだけれども、研究と言う意味では学術的な手法も採り入れたいという思いから、肩肘張らずに知的に楽しもうじゃないかと学会ならぬ“楽会”としました。字体は現物の表示板に習って旧字体とし、「京都仁丹樂會」となった次第です。




 <活 動>
 
  ~探索、研究、そして保全活動~

京都仁丹樂會の活動内容は次のとおりです。

【その1】 探索と現況確認のフィールドワーク
京都市中ほぼ全域(山中を除く)を私たちメンバーは歩き尽くしましたが、それでも「えっ!」と驚くような発見がいまだに続いています。やはり現場主義のフィールドワークは止められません。新しい発見を求めて、そして現状把握のためにも続けています。

【その2】 共同研究
 当の森下仁丹さんにも資料が残っていないという謎いっぱいの表示板。様々な謎を、系統立てたテーマでみんなの智恵を寄せ合い、より正確なものへと精度を高めて行きたいと考えています。当ブログはそのためのツールでもあります。

【その3】 文化財としての啓発と保全活動
 京都の仁丹町名表示板は、今や一企業の広告の域を越えた「京都の生きた文化財」です。保全のためには、先ずはその価値を市民はもちろんのこと観光客や行政の方々など、ひとりでも多くのひとに認識していただくことが不可欠です。そして、その気持ちが京都の空気となって定着すれば、盗難や市場に売りに出されるといったことへの抑止力にもなると同時に、今は人目に触れることなく大切に保管されている“埋蔵仁丹”も、再び現役復帰するものと期待しています。
このような啓発と保全活動を、順次形にしていきたいと考えています。



 <積極的なご参加を>
 
  ~三人集まれば文殊の知恵 初心者も達人もみんなで考えましょう~

 京都の仁丹町名表示板に関心を寄せる方は昔から数多くおられます。また、今まさに興味を持ち出したばかりの人、これから持つであろう人もおられることでしょう。いずれの時点でも、またどのような世界でも常に先人がいて、一方で駆け出しの人がいるものです。しかし、この仁丹の世界では、何百枚見つけたとか、何年前からやっているとかは関係ありません。人と比較することではなく、自分のために楽しめばよいのです。理由はこうです。
 仁丹を探していると、ついでに色んなものを発見し、感動し、疑問に思い、そして調べて「そうだったのか!」ともう一度感動します。仁丹の探索活動はその繰り返しなのです。そして、いつしか京都の歴史・文化・伝統・産業はもちろん、その町内の様子など本当に多くの分野にまで目を向けるようになっていることに気付きます。このように何と言っても奥深い仁丹、1枚の仁丹を通じてどれだけ掘り起こせるかは人それぞれです。発見した枚数とそこから読み取った内容や量が比例しているとは限りません。それぞれが、色んなことに思いを馳せながら、マイペースで京都を楽しむ、それが京都の仁丹町名表示板の楽しみ方であり醍醐味なのです。そして、これで完了というゴールはどうやらなさそうであることを、私たちは確信しています。だから仁丹の探索は、先に出発した人も、今出発した人も、ゴールのない同じ旅への出発なのです。誰もが完成し得ない自分自身の旅だと思っています。
 したがって、初心者も達人も関係なく、みんなの知恵で仁丹の謎解きをしつつ京都を楽しみましょう。素朴な疑問や基本的な質問も大歓迎です。そこから新たな発見が生まれるかもしれません。
 ぜひ、当ブログへお越しください。





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 いつも通る五条通で見かけた仁丹町名看板。お店の入り口の脇に置かれているが、お店
仁丹町名看板(下京區五條通若宮西入西錺屋町、ジンタニアン)【旅の空からb】at 2011年06月29日 16:49
この記事へのコメント
ずんずんさん ブログ開設お疲れ様でした。

これからは、京都仁丹樂會が世の中に知れ渡ると思いますよ。
名前に恥じないような活動をしなければいけませんね
色々と大変な事もあるかと思いますが、ずんずん魂でがんばって下さいね。
Posted by デナ桜 at 2011年05月01日 10:08
デナ桜さん
コメントありがとうございます。
これから、仁丹町名表示板に興味のある方々の集う場にしていきたいと思います。
スタートしたばかりですので、これからも宜しくお願いします!
Posted by 京都仁丹樂會京都仁丹樂會 at 2011年05月02日 22:27
ずんずん様

京都仁丹樂會サイトを立ち上げられたのですね!
これを契機にさらに仁丹看板を愛する方が増えれば、
そして色々なナゾが明らかになっていけば、素晴らしい
と思います!
ささやかながら応援させて頂きます!
自分のブログでも、先達の皆様には遠く及びませんが、
気がついたことをアップしていこうと思います。

加賀屋町の復活看板も見てきました。
看板の保全と復活が少しでも進めば何よりですね。
Posted by idecchi_2006 at 2011年05月06日 20:56
idecchi_2006さん、コメントありがとうございます。
仁丹町名表示板は、ご存知の通り、近代になってからのモノであるにもかかわらず、その実態は謎だらけです。設置された当の森下仁丹さんにも正確なデータは残っていません。
こうなれば、仁丹町名表示板を愛する仲間が集まって、知恵を絞ろうということなのです。
この【京都仁丹樂會】ブログは、みなさんに気軽に訪れてもらって、仁丹町名表示板に関する情報交流の場にしてゆきたいと思っています。
疑問質問や永遠の謎テーマに、知恵を出し合いながら探求を深め、愉しんで行きたいと思います。
これからも宜しくお願い致します!

あっ、それから、復活仁丹ですが、新町通沿いも設置がされていると、メンバーから情報が入ってきています。是非、観覧してこられてはいかがですか。
因みに、三条町(八幡山)・百足屋町(南観音山)・小結棚町(放下鉾)です。
六角町(北観音山)は、まだの様ですね。
Posted by 京都仁丹樂會京都仁丹樂會 at 2011年05月06日 22:09
私の家には右書きの町名プレートが掲げてあります。
〒605-0853 京都市東山区清水月輪町95
Posted by 山田滋夫 at 2011年05月20日 19:21
昨日でしたか、αステーションを聞いていたら、京都新聞ニュース
で仁丹樂會が紹介されていました。関心お持ちになる方も増えるか
と思います。応援しています!
Posted by idecchi_2006 at 2011年05月20日 23:02
山田さん、いらっしゃいませ。コメントが遅くなって、申し訳ございません。

”右書きの町名プレート”というのは、もしかして「下京区 中町通松原上ル月輪町」の仁丹町名表示板のことでしょうか?
この下京区の部分が、右から左へと書く右横書きになっているという意味かな?と考えが及びました。

もし、そうならば、発見したときに嬉しい気持ちになったのを覚えています。
だって、外壁を綺麗に修繕なさっても、その後に大切に設置してくださったのですから。

仁丹の町名表示板は古い町家に非常に良く似合うものですが、建て替えられたりりフォームされて美しくなった家に、従来どおりに大切に掲げられている光景を見るのも非常に嬉しいものです。看板が大切にされているのみならず、町内への、また京都への愛着も見て取れるようで心が明るくなります。

表示板の設置された経過というのが「謎」になっているのですが、私はおそらくはどこかの町内に設置に関わって交わされた資料が眠っているのではと希望を抱いています。

もし、山田さんの町内で伝え聞いておられるような情報がございましたら、ぜひご教示いただければと思います。

では、今後ともよろしくお願いします。
Posted by shimo-chan at 2011年05月27日 19:24
あっ、ごめんなさい。
今のコメント、中町通ではなくて、中道通ですね。
正しくは、「下京区 中道通松原上ル月輪町」でした。
Posted by shimo-chan at 2011年05月27日 19:29
初めまして、関心を持ってサイトを拝見しております。
小生、元々は京都の辻子や突抜、また史跡や町名に興味を持って、主に上京区をウロウロと徘徊していました。
その折、仁丹の町名表示板が意外に沢山残っており、いまだに人々の役に立っていることを改めて知りました。
そんなことで仁丹町名表示板の写真も撮り始めたというような訳です。
どれほど残存しているのか見当もつきませんが、シコシコと撮り溜めています。
不明な点について、お教えを乞う事があると思いますが、その節には宜しくお願いいたします。
Posted by 酒瓮斎 at 2011年05月31日 18:10
酒瓮斎様、いらっしゃいませ。

>関心を持ってサイトを拝見しております。

ありがとうございます。
まだまだ発信したいことが山ほどあるのですが、ただいま作業中です。
これからもっともっと面白くしていきますので、今しばらくお待ちください。

>不明な点について、お教えを乞う事があると思いますが、その節には宜しくお願いいたします。

不明な点。そうなのです、謎の多い世界なのです。
現実に、目の前で見ている光景なのに、説明できないことが多いのです。
だから、色んな考えや情報を集積して、不確かなことを少しずつ確度を上げていけたらと願っています。

今後ともよろしくお願いします。
Posted by shimo-chan at 2011年05月31日 20:50
京都新聞の記事を読みました.皆さん,楽しそうですね.
私も「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」というシリーズを
http://xymtex.com/kyomeguri/
で公開しています.三年前に京都を離れて神奈川県に引っ越した
ので,取材もままなりませんが,皆さんの楽しそうなご様子に
刺激をうけています.京都仁丹樂會の会合の折には,ご一報
ください.
Posted by 藤田 at 2011年06月12日 20:17
不躾なお尋ねで恐縮です。
仁丹町名表示板の仁丹マークが上部にあるのは、行政区名が「上京區」のモノだけであり、「下京區」のモノには皆無?なことについては承知しています。 
小生が現・上京区の区域内において見かけ、写真に撮っていた琺瑯製仁丹町名表示板209枚のうち、仁丹マークが上部にあるモノは57.4%でした。(これには旧上京区から分区して成立した、中京区・左京区・北区にあるモノについては計算から除外しています)
ついては、
1. 仁丹マークが上部にあるのは「上京區」表示のモノのみ、
2. 上部にあるものと下部にあるものとが混在している、
といったことに関して、仁丹町名表示板のあれこれについては先達である諸兄姉において、何か究明されたこと、または、推定されるたことがありましたならご教示ください。お願いします。
Posted by 酒瓮斎 at 2011年06月13日 14:46
藤田さん、いらっしゃいませ。

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」、もちろん存じ上げております。
仁丹と京都の歴史の両方を求めて探索されていますよね。
拝読して、ほんと京都は奥深いなぁと改めて知らせれます。

今後ともよろしくお願いします。
Posted by shimo-chan at 2011年06月13日 23:05
藤田さま
はじめまして、京都仁丹樂會メンバーのずんずんこと、高島と申します。
藤田様がシリーズ展開されておられる「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」は、以前より楽しく読ませていただいております。
仁丹町名表示板からはじまる、様々な探索と思考の展開が楽しいですね。
このスタンスは、私もまったく同じで、それを繰り返している内に、気付いた時には、すっかり仁丹町名表示板の虜になっていました。

京都の歴史や文化を紐解く方法は色々あると思うのですが、仁丹町名表示板というのは、そのカギとするのに、最適のアイテムですね。掘り下げれば掘り下げるほど、その懐の深さを示してくれます。樂會の他のメンバーも、同じ穴の狢(むじな)です。
これからも、よろしくお願い致します。

ところで、話しは変わりますが、
「・・・京めぐり」の作りは、すぐにでも書籍化できる感じになっておりますが、
将来、その可能性はあるのですか?
Posted by ずんずん at 2011年06月13日 23:12
おおっと、shimo-chanさん、コメントありがとうございます。
酒瓮斎さんのご質問、shimo-chanさん、よろしくお願いできますか。
Posted by ずんずん at 2011年06月13日 23:16
酒瓮斎さん、いらっしゃいませ。
商標の上と下、いいテーマですねぇ。

実は、このようにみんなで考えたいテーマがいっぱいあって、それらを書き込んでいただくための場所を作る準備を今進めているところです。それまで不自由な思いをさせるかもしれませんがご了承のほどを。

さて、本題です。
私のデータも酒瓮斎さんと同じ方法で統計をとれば、現上京区管内の琺瑯249枚中140枚が上についているタイプで、56.2%を占めます。
ちなみに現在の中京区管内では107枚中14枚で、極端に落ちて13.1%でした。あと、現左京区管内にも3枚ありました。
いずれも上京・下京時代の旧上京区管内でのみ見られるのですよね。

最初は、”上京区は上に、下京区は下に”かな?と考えてみましたが上手く成り立ちません。

そこで現在の推理は、”上から目線説”です。

佐溝力さんの「日本琺瑯看板広告大図鑑」を見ていて、非常に興味深いことに気付きました。
縦に細長い琺瑯看板で、トレードマークが入る場合はほぼすべてが上に付いているのです。
つまり、上に付けるのが常識的なデザインだったのではないでしょうか?
だから、仁丹も当然のように上に付けた。

ところが、仁丹の場合は他のトレードマークと違って威厳のある人物です。
見方によっては偉そうに上から見下げているとならないでしょうか?
そんな声もあがって、トレードマークが下に変更された。というのが”上から目線説”なのです。
大正から昭和にかけての時期、そんな感覚だってあり得たのではないでしょうか。

また、木製のは上に商標がありますから、琺瑯に移行されたときも当然に商標が上だったと考えるのが自然です。つまり、初期の琺瑯は上だったと言えると思うのです。

そして、設置作業となれば、やはり1から順番に、上から順番に、北から順番にといった具合に旧上京区から手始めに行われ、途中から下タイプに変更されて設置が続けられたのでは?と考えるに至っています。

さて、この根拠、いつか見つかる日がくるのでしょうか?
まぁ、謎だらけの仁丹、みんなでなんやかんやと考えを巡らそうじゃありませんか。
Posted by shimo-chan at 2011年06月14日 00:03
shimo-chanさん、ありがとうございます。
”上から目線説”で思い出したんですが、
確か、仁丹マークの仁丹さんのカイゼル髭がだんだん短くなっていった原因が、
その見た目の偉そう振りが、顰蹙(ひんしゅく)を買わない様に、
だんだん短くなっていった、ということも聞いたように思いますよね。
違いましたっけ。
Posted by ずんずん at 2011年06月14日 19:49
>確か、仁丹マークの仁丹さんのカイゼル髭がだんだん短くなっていった原因が、その見た目の偉そう振りが、顰蹙(ひんしゅく)を買わない様に、だんだん短くなっていった、ということも聞いたように思いますよね。

ずんずんさん、そうそう、思い出しました。
佐溝力さんの講演会でそのようなことおっしゃっていましたね。
時代の空気を敏感に感じ取って、ヒゲの長さなどが微妙に変わっているとか。

ところで、”上から目線説”もあるでしょうが、単なるデザイン上のバランスを是正したということも考えられますよね。
上にあるよりも下にある方が座りが良いからとか。
Posted by shimo-chan at 2011年06月14日 20:17
shimo-chanさん、そうでしたそうでした。
佐溝力さんが講演会でお話しになっていましたね。
時代は変われど、好感度は広告の生命線ということですね。

それから、仁丹マークの上下のデザインバランスの話ですが、shimo-chanさんのコメントでちょっとひらめきました。
京都の仁丹が長尺ゆえの改変だったような気がしてきたのです。
というのは、二階の軒下に設置されることの多かった琺瑯仁丹ですが、仁丹マークが上端だと軒下の影に入って見にくい事例が多発したんじゃないでしょうか。
それが、大津や奈良大阪の短尺モノなら、マークが上でも、軒下の影まで表示板がうまい具合に届かなかったので、あまり問題にならなかったのではと思えるのです。
また、建築に関する法律が、大正9年に改正施行されました。
それで、二階部分の屋根が低い"むしこ窓"の、いわゆる京町家が建築がほとんど無理になりました。裏返せば、軒が深くて二階の屋根の低い建物が大半を占めていたという事だと思うのです。二階の屋根が低いということは、一見道路上から近い位置に仁丹かあると思いますが、上端の仁丹マークはさらに軒下の薄暗い隅へと押し上げる結果となったのだと思います。
shimo-chanさんはじめ、仁丹探索行に汗と涙と鼻水を流されたことのある皆さんなら、すぐにピーンと来たんじゃないですか。カメラを向けた時に、曇った日なんかフラッシュ焚きたくなるでしょ。
あくまでも想像ですが、そんなイメージか、shimo-chanさんのヒントで出てきました。
Posted by ずんずん at 2011年06月14日 22:56
shimo-chanさん
早速に疑問に応えていただきながら、レスポンスが鈍く失礼しました。

1. 「上から目線」を改めた。
2. 「1から順番に、上から順番に、北から順番に」設置した。
この二つ、いろいろ考えられる仮説の一つとして面白いですね。
仮説の真偽を検証するために、いつの日か、吟味に耐える得る資料(町会の記録など)や口伝に行き当たれば良いのですが。
まあ、何れも、無いものねだりでしょうか…。

以下は少し長くなりますが、素朴な感想です。

まず、「上から目線」に関わって、
表示板の制作と設置を請け負った業者は、その順番をランダムに決めるでしょうか。
地域ごとにある程度の数をまとめて、制作と設置をしたのではないでしょうか。
町には通りとの関係で片側町・両側町があります。ところで、通りと通りの交差する地点に接する四つの角地が、同一の町に属するか、異なる町に属するかを問わず、八枚の表示板が必要となります。また、交差点を含まない町域の場合にあっても表示板は複数枚を必要とします。
この場合、矢張り纏めて制作し、同時に設置した方が都合が良いように思われます。
しかし、同一町内にも拘らず、仁丹マークが上のものと下のものと両方が存在する例が、散見されます。
これは、例外あるいは特異例ということで、無視して差し支えないのでしょうか。
書き手(職人さん)の好みや、その時の気分で上下が決まるということはなかったでしょうか。

次に、「1から順番に、上から順番に、北から順番に」に関わって、
中世の平安京で大内裏のあった由緒ある北部から。京都盆地は北から南へ傾斜しており、鴨川をはじめ河川の水は北から南に流れている。故に、事を進めるにあたっては「かみ」から「しも」へ、北から南えとするのが自然では…。
さて、この説の蓋然性は…、説得力の程は…、う〜ん。
郡区町村編成法により、明治12年に京都府上京区と京都府下京区となる。そして、市制施行により、明治22年に京都市上京区と京都市下京区となる。いつも一緒でした。下京の町衆が上京の後塵を拝することは、矢張り強く嫌ったのではなかろうか。
ところで、shimon-chanさんの「デザイン上のバランス是正」説、ずんずんさんの「宣伝効果説」、いずれも魅力的な仮説ですね。しかし、設置順としては下京が上京に先行したことになりますね。

最後に脱線します。アノー、私は今、乙訓地区に住んでいますが、もとは下京区に住んでいました。五条大宮でした。
…ナモンデ〜、上京区の設置先行説はあまり認めたくナ〜イッ!!!(笑い)
Posted by 酒瓮斎 at 2011年06月15日 15:36
>…ナモンデ〜、上京区の設置先行説はあまり認めたくナ〜イッ!!!

酒瓮斎さん、そのこだわりいいですね。
私は現在大津市在住ですが、もともとの実家が夷川でしたので、そういうことですと、”上京區”ということになります。
そこのところは、喧々諤々(けんけんがくがく)大騒ぎしたいところですね。

さて、その設置業者のお話をされましたが、これも仮説になるのですが、
以前にこんなことを考えたことがあります。

・京都の仁丹町名表示板の設置は、無地の琺瑯仁丹をリヤカーに積んで市内を巡り歩きながら、設置していったのではないか。

大胆な仮説なのですが、それを想像させる理由があるのです。

1)京都市内に設置されている仁丹の住所表記と、設置場所の関係が、非常に繊細であること。
2)京都の仁丹町名表示板だけ、住所の文字が釉薬による琺瑯でない。

まず、(1)ですが、
数千枚が設置されたであろうと想像される京都市内の琺瑯仁丹ですが、
あそこまで詳細で微細な住所表記を、看板工場で書き整えてから、それぞれ表記内容に合致する位置に看板を設置するのは至難の技といえます。
もし、工場から書いて出荷していたなら、その設置位置を指示する施工指示書はいかなるものであったのか、途方に暮れそうです。
数百枚ならばできないこともないでしょうが、その数たるやご存知の通りです。
その枚数と、内容はその微妙な位置を指示するメモですから、書こうとすれば恐ろしい作業です。

それに対して、伏見市・大津・奈良・大阪の仁丹は、至って簡単なものです。
例えば一町に三枚設置と決めてしまえば、琺瑯看板工場で、同じ町名の表示板を三枚ずつ製作して、次々と設置する係りに、出荷して行けばいいだけですからね。

京都の仁丹町名表示板の表記ミス(誤字)は何枚も確認されていますが、設置場所ミスというのは皆無ではないでしょうか。
どちらかというと、設置場所のミスの方が起こり易いと考えるのです。

(2)は既に想像がつくかと思いますが、釉薬になっていない理由は、その設置現場で書いていたから、釉薬の文字ではないということなのです。

今年2月の佐溝力さんの講演会で、仁丹町名表示板ということではなかったですが、一般的な広告琺瑯看板の設置手順のお話がありました。
それは、とても簡単な手続きで、現代のように権利だの責任だのという話は一切なかったみたいです。
それは、看板業者なのか、その広告主なのかはわかりませんが、手拭一本を持って町々を回り、看板設置のお伺いに回ったものだそうです。
設置の了解をいただいた方には、お礼に代えて、その手拭を一本渡していたというお話でした。
飛び込み営業のノリですね。

その飛び込み営業が、上京區か下京區かから始まり、そのせいで、仁丹マークの上下が、きっちりした法則はないということなのかもしれません。

どうですか、この仮説。
相当いい線イッテルと思うのですが。
Posted by ずんずん at 2011年06月15日 21:09
ずんずんさん、
示唆的で有益な考え方をいろいろと示していただきました。ありがとうございます。

出向いた現場で無地の琺瑯表示板に住所表記の部分を書き入れ、その場で次々に設置していった。そのため、文字部分の琺瑯化を省略した。(せざるを得なかった?)
そのように柔軟な作製・設置方法をとったことにより、個別の設置地点と表記がピッタリとそぐうものとなり、また、膨大な枚数の作製と設置を可能とした。

私は、文字部分が流れてしまって殆ど消えているものや薄くなっているものを何枚も見て、琺瑯にしては粗悪な造りだなあと思っていました。
しかし、琺瑯処理は下地だけで文字は素ということならば、年寄りの厚化粧のようになってしまうのも、宜なるかな…当然そうなりますよね。

設置にあたっては、前もってその地域(町内会など)にきちっと申し入れて、許可を得ると云うようなことは無く、出向いた先の家々で個別に依頼し了解をとった。
また、頼まれる方も別に固いことは云わなかったのかも。

仁丹町名表示板の設置時期は、大正ロマン=古き良き時代の雰囲気を幾分かを残しながらも、時代の不安を覚えさせるような昭和初期ですね。
そのような時代、おっしゃるような遣り方で進められたとすると、頼む方と頼まれる方の関係と云ったものに、なにかこう、ほのぼのとしたものを感じます。
何か特別な感慨と云うか情緒を催す説のため、直ちには、瑕や欠点を探す気がしません。イヤー、敬服しました。
Posted by 酒瓮斎 at 2011年06月16日 18:41
ずんずん様6/13の分

書籍化するつもりはいまのところありません.

実は,TeX (LaTeX)という組版ソフトに凝っていて,
とくに縦組の文書への可能性をさぐっています.
いろいろなマクロ類をhttp://xymtex.com/で
公開しており,漢文の訓点文やふりがななど,
通常のワープロソフトでは難しいものも簡単に
できるようになっています

http://xymtex.com/fujitas2/kumihan1/kumihan1.html
「縦組にとっての句読点---TeX組版からの見方」

http://xymtex.com/fujitas/kanbun/kanbunex.html
「漢文の訓点文の組版」

「仁丹の町名看板をよすがに京めぐり」はその
サンプルとして作成しており,古文や漢文の
引用が多いのは,このためです.
Posted by 藤田 at 2011年06月17日 14:19
はじめまして、うらと申します。

20年ほど前から京都に住んでいるのですが、4年ほど前から、京都に設置されている仁丹の町名看板を探しながら写真を撮り集めています。
「京都仁丹樂會」の設立、すばらしいですね!私も応援させていただきたいと思います。

酒瓮斎さんが提起された、仁丹商標が町名看板の上部にあるものと下部にあるものの違いなのですが、私はこれらを色分けして、マッピングした地図を作成しています。(写真に書き込んだGPSの位置情報で自動作成したものなので若干場所が異なっていますので、ご注意ください。)

京都仁丹看板マップ
http://kinseijin.dyndns.org/jintan/

この地図で青色のマークで示したものが上部に仁丹商標(以下「上部仁丹」といいます。)があるもので、緑色が下部にあるもの(以下「下部仁丹」といいます。)です。
これを見ると、上部仁丹は、ある固まりで配置されているように見えるのですが、この固まりは元学区単位ではないかと考えています。例えば、寺町今出川の近辺に上部仁丹の固まりがありますが、すべて京極学区であり、西部の室町学区や南部の春日学区は下部仁丹です。
京都では元学区単位での住民自治組織がありますが、太平洋戦争以前はより強い結びつきがあったと伺っております。当初、元学区単位で導入がなされたところと導入されなかったところがあるのであれば、その導入の可否において、元学区単位の住民自治組織の意志決定があったとも推測されます。
もしかすると、当時の記録に残されているかもしれませんね。

さて、私が気づいた上記の分布のほか、上部仁丹と下部仁丹の違いについては、以下の事実があります。
* 上部仁丹は、すべて区名として「上京區」と記載され、旧上京区域に設置されている。
* 後期に設置された「左京區」「東山區」「右京區」の区名入りのものは、下部仁丹である。
* 上部仁丹の文字には褪色したものが多く見られるが、下部仁丹にはほとんど見られない。
また、現在の中京区・左京区・東山区の地域に、当該地の昭和4年以前の区名でのものが設置されていることから、設置開始時は昭和4年以前です。

これらから私は、京都の仁丹看板は、以下のような経緯によって設置されたものと考えています。

1. 昭和4年(1929年)の分区以前のある時期、京都市の旧上京区域内において、学区(現在の元学区)単位でパイロット的に上部に仁丹の商標が示された琺瑯製の町名表示板が設置された。
これに関する私の追加の推測は以下のとおりです。
(1)森下仁丹から京都市に設置の申し入れがあり、市が地域自治組織を通じて学区単位に設置を打診し、希望する学区が選定された。(仁丹看板は、京都市における住所を非常に厳密かつ正確に示しています。これは行政当局の何らかの関与があったことを示すものと考えています。設置場所に対して表記が厳密であることは既にご指摘のとおりですが、表記そのものについても例えば、「東入」「西入」は、慣用的には「東入ル」「西入ル」とも示されますが、仁丹看板ではその表記を行ったものは見あたりません。また、住民票等で町名に通り名表記を冠しない町名については、同じく町名に通り名表記を冠しない(町名のみとするか町名の後ろに慣用的な通り名を表記する)と公的な表記に厳密に従う姿勢が見られます。)
(2)設置する学区については、上京区から選定された。(これは上京区のほうが、複雑に街路が入り組んでおり町名表示の必要性が高かったためと考えられます。また、自治組織が上京・下京別々に設置され、要請を上京区の自治組織に絞ったためとも考えられます。)

2. 上記1.のパイロット事業の結果を踏まえ、以下(1)(2)の改良が行われ、1.で設置された学区以外の地域(上京区・下京区両区)での設置が開始された。設置は継続され、昭和4年の分区、また「右京區」の表示のものもあることから、昭和6年の右京区設置以降も設置された。
(1)仁丹の商標の位置を上部から下部に改めること(商標の位置が下部に落ち着いた理由は、私には考えつきません。)
(2)文字の記載に用いる塗料を褪色しにくいものとすること

と考えています。ただし、上京区は上部仁丹、下京区は下部仁丹という違いで、1.の段階から、2.のタイプでの設置が行われたことも考えられなくはないですが、わざわざ褪色しやすいものとそうでないもので区別して文字を記すことの合理性が考えにくいと思っています。
Posted by うら at 2011年07月25日 01:49
うらさん、はじめまして、ずんずんと申します。
「京都仁丹樂會」の設立に応援のメッセージをありがとうございます。
さらに、熱き情熱がほとばしるコメントに感動しております。

「京都仁丹看板マップ」は以前より拝見していました。
ただマップだけの構成になっていましたので、
どんな方が作っておられるんだろうと、実は興味津々でした。
これからもお気軽にコメントをいただけたら幸いです。

すでにご覧いただいたかもしれませんが、
先日の22日から「仁丹町名表示板 基礎講座」を開講いたしました。
京都仁丹樂會のメンバーみんなで分担して記事を執筆し、
徐々に仁丹町名表示板の謎と秘密に迫って行こうという企画です。
迫っていこうといいましても、当の森下仁丹さんにはその真実を伝える史料は失われております。
ですので、現在手に入れることのできる情報を拾い集め、
その材料を、色んな角度から検討して、推測をしてゆくという作業になります。
その入手できる情報の大半は、やはり現存する仁丹町名表示板になってきます。
減ったとはいえ、膨大な数の仁丹町名表示板から読取れる情報をできうる限り解読して、
情報に変換してゆきたいと思います。
講座に関しては、今後も住所表記のことや設置時期についても、
おいおい出てきますので、お楽しみに。
またご意見をお待ちしています。

さて、うらさんの仁丹商標の上下を、「元学区単位ではないか」の仮説は面白いですね。
これは、学区マップと重ねてみて、是非に検証する価値がありますね。
おっしゅる通りに、自治組織の結束力には、現在では信じられないくらいに強いものがありました。
過去完了形で表現してしまいましたが、今の結束力の比ではないほどに強かったということなんです。
それは、戦前であったりとか、はるか遠い昔の話ではなく、昭和50年代にはまだまだ力を発揮していました。
この手の話に、すぐ例え話に引っ張り出してしまうネタなのですが、わたしの体験話をご紹介します。

私は春日学区の南隣りの銅駝学区に生まれ育ちました。
今から33年前の昭和53年、京都市の小中学校統廃合計画により、百年以上の歴史を持つ旧番組小学校の中では一番手として、我が母校・銅駝校(親父の時代は尋常小学校・僕たちの時代は中学校)に白羽の矢が立ったのです。
今では信じられないと思いますが、京都市の強硬姿勢に対して、銅駝学区民は一致団結し、なんと、親たちは子供たちを登校させず自宅に待機をさせ、登校拒否を継続しながら、統廃合の反対運動を繰り広げたのです。
登校拒否って、一般的には子供が登校を拒否するのが普通ですが、この場合は、親が子供を学校に行かせることを拒否したという、すごい状態だったのです。

今から思うと、自分たち地元の学校を失うことは、地元連帯の核を失うのと同じくらいの意味を持っていたのでしょうね。
よく考えると、学区の連携が強いという前に、それぞれ個々の町内の力が、強烈に強かったということだと気付きます。
だから、例えば区民運動会の盛り上がり方は、尋常ではありませんでした。
それぞれの町名の入ったゼッケンを胸に付けてもらうと、子供心に強くなったような、誇らしい気持ちで、心がジンジンと熱くなったのを今でも思い出します。
この時ばかりは、仲良しの友達とも、敵同士になってしまいます。
それには、いつも大人しい町内のおっちゃんやおばちゃん、それに親も含めて、大人という大人が、みんな、バリバリ対抗心出してやり合うので、子供もやらなあかんと思ったのでしょうね。
とにかく、地元を誇りに思う心が強かったですね。


それから、うらさんの説の一つ、下記の退色云々説も、一度実数による統計を取ってみたいですね。
「* 上部仁丹の文字には褪色したものが多く見られるが、下部仁丹にはほとんど見られない。」
何か見えてくるかもしれませんね。
退色のレベルの判断のものさしなど、何かアドバイスをいただけないでしょうか。

ではでは、よろしくお願い致します。
Posted by ずんずん at 2011年07月26日 02:11
お返事ありがとうございます。

上部仁丹の設置エリアが元学区単位ではないかということも、褪色のことも、いずれきちんと検証しなければと思っていたものを、自分の印象だけの推定として書いてしまい申し訳ないです。皆さんのお知恵を借りながら、こつこつと検証をしていきたいと思っています。
Posted by うら at 2011年07月27日 23:24
うらさん
「自分の印象だけの推定」と、謙遜なさらなくていい思いますよ。
自分の印象といわれますが、実際に自分で訪ね歩いて、その実感の中から導き出された推定です。
本を読んだだけとか、人の話を聞いただけでなど、
机上の空想から出てきた考えではないという点、非常に大切かと思います。
その推定と試行錯誤を繰り返してゆけばいいと思います。
「三人寄れば文殊の知恵」的発想で、この樂會も生まれました。
その経験値を集結すれば、真実に一歩近づけると考えています。
これからも、推定・推測、様々な意見をお願いします。

追伸  私の場合、結論を出すこともいいのですが、
思考を巡らす、そのプロセスが楽しかったりするので、
たちが悪いかもしれませんが、長いおつきあいをよろしくです。
Posted by ずんずん at 2011年07月28日 13:13
久し振りに酒瓮斎です。
最近は余り書き込みが無いようですね。それでちょっと冷やかしに・・・

多くの人達によって仁丹町名表示板の残存が確認されている場所は、京都市内では最北部かつ最東部が左京区上高野、西は右京区嵯峨野、南は伏見区となるように思えます。
周辺部の設置数は、そう多くはなかったであろうことは容易に想像できます。
そこで、各行政区の成立や分区・編入された時期からみて、今では残っていないが設置された可能性のある地域、逆に設置の可能性が全く無いであろう地域を探ってみようと考えました。(なにぶん確かなことは全く不明な事柄ですから、気楽に愉しんでみました)

そこで、取り敢えず左京区についてあたってみました。
明治21年(1888)愛宕郡の内、吉田・岡崎・聖護院・南禅寺・鹿ヶ谷・浄土寺の6カ村と粟田口村の一部が京都府上京区に編入する。

明治22年(1889)市制町村制施行により京都府上京区は京都市上京区となる。
このとき、愛宕郡の多くの村が合併した。高野など3カ村が合併して修学院村、大原など5カ村が合併して大原村、静市など3カ村が合併して静市野村、鞍馬など3カ村により鞍馬村、岩倉など5カ村により岩倉村、別所など4カ村により花背村、田中など2カ村により田中村、上賀茂など2カ村により上賀茂村がそれぞれ成立する。
なお、松ヶ崎・八瀬・久多・白川・下鴨の各村は単独で自治体を形成した。

大正7年(1918)白川・田中・下鴨の3カ村と上賀茂村の一部が京都市上京区に編入。

昭和4年(1929)大正7年に上京区に編入していた上記地域は、新たに左京区として分区成立。

昭和6年(1931)松ヶ崎・修学院の2カ村が左京区に編入。

昭和24年(1949)岩倉・八瀬・大原・静市野・鞍馬・花背・久多の7カ村が左京区に編入。(愛宕郡は消滅)

昭和32年(1957)北桑田郡京北町大字広河原を編入。

このような左京区域の変遷からのみ見るならば、仁丹町名看板が設置されたのは次のような1から4までの幅を持つ時期ということになる。

1. 吉田・岡崎(黒谷町はここ)・聖護院・南禅寺・鹿ヶ谷・浄土寺は、明治21年以降。
2. 白川・田中・下鴨は、上京区に編入した大正7年から左京区に変わった昭和4年までの間。
3. 松ヶ崎と修学院(一乗寺・山端・高野はここ)は、昭和6年以降。
4. 岩倉・八瀬・大原・静市野・鞍馬・花背・久多は、昭和24年以降。

ところで、上記で見た期間、明治21年(1888)〜昭和24年(1949)の約60年間、仁丹町名表示板の設置が延々と続いたわけでは勿論無かろう。
勝手にざっくりと期間を限ってみましょう。(ナント乱暴な!と怒らずお許し有れ)
ズバリ、上記2と3に当てはまる期間のうち、大正末期から昭和7〜8年にかけての、せいぜい約10年間のことと考えました。
どーも、お粗末で失礼しました。
Posted by 酒瓮斎 at 2012年01月22日 18:25
酒瓮斎です。
つい先頃((1/22)、久方ぶりに書き込みをしました。ところが、しっかり読み返さずに送信したため、うっかりミスをおかしてしまいました。

「周辺部の設置数は、そう多くはなかったであろうことは容易に想像できます。
そこで、各行政区の成立や分区・編入された時期からみて、今では残っていないが設置された可能性のある地域、逆に設置の可能性が全く無いであろう地域を探ってみようと考えました。」としながら、左京区を取り上げて、設置されたであろうと考える時期については書きましたが、設置された可能性のある地域と可能性の無い地域については、はっきりとした記述を洩らしてしまいました。文脈からその点を読み取れはするものの、何方かからきっと指摘されることと予想していましが、今のところ反応はありません。

そこで、その辺りを補足的に記します。(勿論、勝手で気楽な推測ですが・・・)
周辺部において仁丹町名表示板が設置されたのは、主要街道沿いやそれに準ずる道(今で云えば、国道や主要地方道沿い)で、京都の出入り口にあたるような所が境界になるだろうと考えます。
仁丹町名表示板の設置目的は、一義的には広告(宣伝)でしょうから、余り効果の見込めない地域に無駄な費用を投入することはあり得ないでしょう。

具体的には、左京区では大原街道(国道367号)沿いの地域で、山端や上高野など高野川沿いの地域には仁丹町名表示板が残っています。
また、松ヶ崎にも何枚かの仁丹町名表示板が残っていますが、北山通というのは昭和30年代に都市計画道路として建設が進んだので、その北側を通っている今ではひっそりとした通りがかつての本道だった。だから、そこに仁丹町名表示板が設置されたのだと思います。
修学院もそうなのかもしれませんが、雲母越ではマイナー過ぎるようで見当外れか?

そう云うことで見てみると、他に三条街道(東海道)、伏見街道、渋谷越(醍醐道)、下嵯峨街道(三条街道)等々においても、仁丹町名表示板が目立つことは大いに気分を良くしてくれます。(笑)
Posted by 酒瓮斎 at 2012年01月25日 13:58
酒瓮斎さん、いらっしゃいませ。

>なにぶん確かなことは全く不明な事柄ですから、気楽に愉しんでみました

京都の仁丹町名表示板というテーマ、まさにこのスタンスが正解だと思います。
所詮何の記録もなく、不明なことだらけなのですから、京都の歴史やまちづくりの歴史といった周辺の事情を調べつつ、みんなで楽しく推理しながら少しずつピントがシャープになっていけばと思っています。

さて、設置時期については次回の基礎講座のテーマとなるのですが、ずばり結論が出てしまったようですね。

>大正末期から昭和7〜8年にかけての、せいぜい約10年間のことと考えました。

琺瑯製については、このあたりに落ち着くと考えています。

周辺部の設置は、おっしゃるとおり街道沿いでしょうね。でなければ人家もほとんどなかったでしょうから。
それと神社仏閣などの観光地付近も、その必要性と宣伝効果から考えられそうですね。
ところで、三条通で嵯峨野まで見つかっているならば、観光地である嵐山にもあってもよかったのではないでしょうか?まだ未補足のままですが。
Posted by 京都仁丹樂會 at 2012年01月25日 23:59
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