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2021年11月24日

琺瑯仁丹 設置時期再考5

琺瑯仁丹 設置時期の再考(5)

~分区との関連について~


琺瑯仁丹の設置時期について再検討してきましたが、どうやら少なくとも大正15年(1926年)4月1日~昭和4年(1929年)3月31日の間にその答えはありそうです。前者は新商標が新聞紙上に登場した日、後者は分区の前日です。

今回のテーマ、「分区」というのは行政区のエリアを分けるということです。
上京区と下京区の2つの区しかなかったものを昭和4年4月1日、次のイメージ図のように5つの区へと細かく分けたのです。


琺瑯仁丹 設置時期再考5


つまり、加茂川より西は上京区と下京区の間に「中京区」を設け、加茂川の東はそれまで上京区だったところを「左京区」、下京区だったところを「東山区」にしました。

この当時の京都市域内にある琺瑯仁丹に記された行政区名は、「上京区」と「下京区」しかありません。現在は左京区であっても仁丹は「上京区」、東山区であっても「下京区」、中京区ではほぼ三条通を境にして北は「上京区」、南は「下京区」と記されており、中京区となっているものが1枚もないのです。(平成になってから設置されたものを除く)
これすなわち分区する以前に設置されたことを意味します。


琺瑯仁丹 設置時期再考5


さて、前述の大正15年4月1日~昭和4年3月31日のわずか丸3年の間に、設置を初めて、終わっていなければならないことになります。そして、昭和3年5月24日の京都市告示第252号(多くの通り名の変更)を色濃く反映していたことから、設置のピークはこの付近ではないかと見ることもできます。

 過去の関連記事>それぞれリンクしています


ここで誰しも思う疑問があります。昭和4年4月1日の分区との関連です。すぐに区の名称が変わるにもかかわらず、お構いなしに設置したのだろうか?ということです。

現代の感覚ならば、区を分けるとなると何年か前に市会に諮って決定し、広報も十分に行い、新しい区役所の場所を決めて庁舎を建て、完成して受け皿が整ったら人事異動を発令して、さぁスタートでしょう。では、当時はどうだったのか?
そもそも分区の話はいつ登場したのか? 森下仁丹(当時は森下博薬房)は事前に分かっていて設置したのか? それとも知らないまま設置したのか? これらについて精査してみました。

琺瑯仁丹 設置時期再考5


先ず、分区するという発表はいつなされたのか? またまた新聞調査です。昭和になってからの京都日出新聞、京都日日新聞、朝日新聞京都版のマイクロフィルムを丹念に見ていきました。

この頃、京都市であったことと言えば昭和3年11月の昭和の御大典とそれを記念した大礼記念京都大博覧会です。国家的イベントで京都市が一躍表舞台に躍り出ることになり、連日のように関連記事で賑わい、全国紙と比べれば京都3紙は御大典一色と言ってもよいほどでした。

そして、見つけたのは京都日日新聞昭和3年9月3日付け夕刊でした。3紙のうち京都日日新聞でのみ見られました。

琺瑯仁丹 設置時期再考5

京都日日新聞 昭和3年9月3日夕刊

“御大典を機会として市の増区問題解決”とあります。当時は分区とは言わず増区と言っていたようです。そして、“来年の新年度から実施か”とまだ決まっていないことが分かります。本文には、“関係各課長に秘密裡に調査を指示した”ともあります。こうして報じられると秘密裡とは言えませんが、その言葉の裏はまだ公にしていないということです。この時点でまだまだ案の段階だったことが分かります。

「京都市政史 第1巻 市政の形成」によれば、実は増区は明治時代から2度、3度と議論されたものの、当時の内務省は基本的に認めない方針であったこと、そして京都市自身の財政難から現実味を帯びなかったようです。しかし、人口は増え続け、昭和に入った時にはすでに2区による事務処理は限界を超えていて、内務省の方針も変わっていたとあります。
御大典関連事業を進める傍ら、増区は待ったなしの喫緊の課題だったのでしょう。


琺瑯仁丹 設置時期再考5


そして、昭和3年11月27日夕方、市長は来年度から分区したいと市会協議会に提案しました。

琺瑯仁丹 設置時期再考5

朝日新聞京都地方版 昭和3年11月28日

この11月27日という日はなかなか興味深い日なのです。京都を舞台とした御大典が無事に終わり、市長をはじめとした京都の御大典関係者3,000人が岡崎公会堂に集まって大祝宴会(今で言う打ち上げでしょうか)をあげた3日後であり、なおかつ昭和天皇が伊勢神宮などに立ち寄って東京に還幸された日の翌日でした。つまり、京都を舞台とした国家の一大行事がすべて無事に終わり、肩の荷もおり、ホッとしたタイミングだったのです。そして、間髪入れずに“次は増区だ!これ以上先送りできない!”と言わんばかりです。それまでは、世の中はとにかく御大典一色、行政区がどうのこうのと話題にすらならなかった時勢だったようです。

この後、市会で紛糾することもありましたが、年が明けた昭和4年1月11日の市会で承認に漕ぎつけ、その後2月には府が内務大臣に進達、3月6日に認可、それを受けての緊急市会が3月22日に開かれ、分区のための手続きがすべて終わって1週間後に分区といった流れでした。

ちなみに、新しい区の名称ですが、市長の原案では中京区、北左京区、南左京区でした。それに対して市会は中京区、左京区、東山区を提言、さらに京都大学の歴史学者は中京区はよいとしても、左京区、東山区は歴史的にも地理的にも認められない、白川区と八坂区にすべしと強く訴えています。結果、議会の案が承認されました。


琺瑯仁丹 設置時期再考5


次の新聞は分区前日の様子を報じています。

琺瑯仁丹 設置時期再考5

京都日日新聞 昭4.3.31

見出しは、“明日からの増区準備にてんてこ舞いの区役所 上京区役所には左京、中京同居 下京区役所には当分東山が居候 今夜は徹夜して事務の引継ぎ”とあります。すなわち、今の私たちがイメージするように、新しく区役所を建設して準備万端整えてからではなく、左京区役所と中京区役所は従前の上京区役所の中にとりあえず設け、東山区役所も従前の下京区役所の中に同居する形でのオープンだったのです。つまりは、“書類上の分区”としてのスタートだったわけです。

記事の詳細では、“前日より大工や手伝い(アルバイトのことか?)が入って内部に仕切りを設え、上京区役所の東門が左京区役所の出入口、正面の出入口を入いれば西側が中京区役所、東側が上京区役所である。また、下京区役所では庁舎の北側が下京区役所、南側が東山区役所になる”と報じています。

そして、次の記事が開庁当日のものです。上京区役所に「中京区役所」と「左京区役所」の表札、下京区役所に「東山区役所」の表札を設置しているシーンが掲載されています。

琺瑯仁丹 設置時期再考5

京都日出新聞 昭和4年4月1日夕刊


ちなみに当時の上京・下京両区役所は現在の場所とは全く違います。
 上京区役所 → 中立売通小川東入三丁町(現在の京都府 林務事務所の敷地)
 下京区役所 → 高倉通五条下る富屋町(現在の六條院公園の敷地)
にありました。

さらに、4月1日の京都日日新聞は、“不手際千萬なる 市の人事行政 今日からの増区に幹部だけで肝腎の書記がない”と報じていました。信じられないことですが、管理職だけの人選で精いっぱい、一般の事務職員についてはこれから人選にかかると報じられていました。何から何まで、今の感覚とは違い、随分とアバウトだったようです。


さて、以上のような状況下において、仁丹側は分区のことなど知る由もなかったと考えるのが自然ではないでしょうか。とにかく、世の中すべてが御大典一色、琺瑯仁丹の設置時期を考えるうえで、分区のことは気にする必要がなさそうです。仁丹側としては博覧会が始まる昭和3年9月までに設置を終えようと急いだのではないかと考えるのですが、いかがでしょうか?


琺瑯仁丹 設置時期再考5

 
話しのついでに、分区(増区)によりその後に新しくできた区役所の場所は次のとおりです。

【中京区役所】 東洞院通六角下る御射山町
現在のウィングス京都の敷地です。御射山公園のすぐ北側です。元々あった勧業銀行京都支店の敷地と建物を購入し、内部工事をしたうえで昭和4年6月9日より使用開始と、京都日出新聞の同日付け夕刊に報じられています。そして、ウィングス京都のファサードとして一部が今も残っています。

新築する必要のあった左京区役所と東山区役所については、京都日出新聞昭和4年8月6日夕刊に「新設両区役所 敷地決定す」と題して場所が報じられており、建物についてはいずれも鉄筋コンクリート造3階建て地階付きで、1階・2階が事務室、3階が集会室の同一構造とし、建設業者も入札で決めたし翌年2月には完成するだろうとしています。

建設工事は予定通り進捗したようで、昭和5年3月1日付けの新聞で完成が報じられていました。

琺瑯仁丹 設置時期再考5

大阪朝日新聞京都版 昭和5年3月1日


【左京区役所】 吉田中阿達町
東一条通の錦林第4小学校のすぐ東隣です。元々は絵画専門学校があった敷地だそうです。昭和5年3月1日の大阪朝日新聞京都版によれば同年3月25日に竣工式、4月1日から事務を執るとあります。デザインはフランス式なのだそうです。建物は最近まで残っていましたが、現在は京都大学東一条館に建て替えられています。「初代左京区役所跡」という石碑もあります。

【東山区役所】 東大路通七条上る妙法院前側町
京都国立博物館の敷地の北東角です。当初は専売局跡地(詳細未調査)が有力視されていましたが、こちらに決まりました。昭和5年3月1日の大阪朝日新聞京都版によればデザインはこちらはドイツ式だそうで、同年3月28日に竣工式、4月1日から事務を執るとありました。結局、新築の左京・東山両区役所は分区翌年である昭和5年4月1日に同時オープンしたことになります。なお、この初代東山区役所は今も博物館管理棟として現存しています。次の写真のとおりです。

琺瑯仁丹 設置時期再考5


~おわり~
~shimo-chan~



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Posted by 京都仁丹樂會 at 12:02│Comments(2)設置時期
この記事へのコメント
上京と下京の区分は二条では?
Posted by sato at 2023年01月03日 15:09
おっしゃるとおり、確かに近世は二条通が上京と下京の境界でしたが、明治2年1月30日に三条通に変更され、さらに明治12年3月14日の京都府布告第70号によって三条通で上京と下京で分けることが確認されております。

当ブログでは仁丹が発売された明治38年以降を扱っております。
Posted by shimo-chan at 2023年01月03日 22:54
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