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2012年12月01日

七本松通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~



仁丹求めて七本松通を北上、今出川までやってきました。上七軒の入口です。



ここで七本松通はやや北西へと進路を変えるのですが、道なりにさらに北上してみます。
しばらくすると東西の通りである五辻通と交差します。



ここで、右手、すなわち東入の方向に仁丹を発見。
実に粋な町家のイタリアンレストランで、まるでオブジェのように溶け込んでいます。



地図を見ると東柳町。
五辻通に面していて、七本松通から東に入ったところなので、その仁丹は「五辻通七本松東入東柳町」となっているはずです。
が、しかし、ご覧のように「五辻通七本松西入東柳町」と ”西入” になっているのです。
「あれ?」と思います。



この仁丹は、次の地図 ↓ の点です。


~京都市都市計画地図 「船岡山」 平成23年修正 より~


もう少し、五辻通を東へ進んでみます。ここでも仁丹が見られます。点です。



なんと美しい町家でしょうか。
白い漆喰の真壁、格子窓、饅頭瓦、鍾馗さん、そして仁丹。
仁丹町名表示板は、今や町家の必須アイテムになっていると言っても過言ではないような気がします。



でも、この仁丹も先ほどと同様に「五辻通七本松西入東柳町」となっているのです。
地図ではどう見ても ”東入” なのですが、、、
東と西を、私が勘違いをしているのかと思いました。

もう少し東に目をやると、そこにも仁丹の姿が見えました。
この写真 ↓ の赤い矢印のところで、地図では点です。



千本釈迦堂を左手に、前を通り過ぎて近づいてみると、こんな ↓ 仁丹でした。



五辻通七本松東入溝前町」とありました。
ようやく ”東入” に出会えたのです。
こうでなくっちゃと思いましたが、七本松通よりかなり東に入ったところでした。
一丁目とか二丁目などが付加されてもよさそうな気もします。

※     ※     ※


再び先ほどの七本松通と五辻通の交差点に戻りました。
今度は五辻通の少し西側を探索してみました。

すると、すぐに仁丹に出会えました。
この写真 ↓ の赤い矢印のところです。地図の点、翔鸞小学校の校門前なのですが、現在は残念ながら行方不明です。





五辻通七本松西入二丁目西柳町」です。
”西入” で正解なのですが、七本松から西へ入ってすぐの場所なのに ”二丁目” となるとちょっと違和感を抱いてしまいます。

どうも、この近辺、現状と仁丹の設置場所がしっくりといきません。

※     ※     ※


さて、またまた七本松通に戻り、五辻通から北上を続けます。

今度は、七本松通に面した仁丹を発見しました。
この写真 ↓ の赤の矢印の箇所です。地図の点です。



地図では老松町となっていますので、さしずめ「七本松通五辻上る老松町」のはずです。
ところが、これまた不思議なことが、、、

仁丹の表記はご覧のとおり、現状と大いなる不一致を起こしているのでした。



七本松通そのものに面しているにも関わらず、なんと、「五辻通七本松西入上ル老松町」だったのです。

ここまでくると、もはや何か大きな変動がこの辺りであったとしか考えられません。例えば、七本松通の付け替えであるとか・・・
そもそも、今出川通から斜めに伸びて、しかもまち中の通りとしては珍しく歩道も備えて広いところに不自然さを気付かなければならないのです。

※     ※     ※


調べてみました。
やはり、戦時中の建物疎開を起因とする七本松通の付け替えだったのです。


~『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 別添地図「建物疎開跡地利用計画図」 より~

この地図で、色の付いている部分が戦時中の建物疎開の跡地です。
それを戦後直後、都市計画に組み込み、京都のまちの再生に使用されたのです。

赤色の部分はそのまま道路として使用されたところ、濃い青色は都市計画としては使用されず一旦は元の所有者に返還されたところ、緑色の部分は公園として整備されたところを示しています。
ちなみに、明るい青色の部分は第4次建物疎開の対象とされたけども、終戦で中止となった箇所です。

※     ※     ※


それでは、建物疎開が行われる前はどのようになっていたのでしょうか?
次の地図 ↓ をご覧ください。


~都市計画地図「船岡山」 大正11年測図 昭和10年修正測図 昭和27年修正 より~


昭和27年修正とはありますが、(新)七本松通の境界を線で示しているだけで、疎開跡地の建物はそのまま描かれていますので、戦前の状況もこれで分かります。

この地図では七本松通と表示された通りは、拡幅前の今出川通からそのまままっすぐ北へと延び、千本釈迦堂に達して終わっています。
それが戦後、建物疎開跡地の整備を終えると、そちらを七本松通として名称を譲ったのでしょう。告示などのウラを取っていないので、いつからかは分かりませんが。

琺瑯仁丹の設置は大正末期から昭和2,3年頃までだったであろうと想定しているのですが、当時としては地図の印のポイントが ”五辻七本松” であったのです。
ここにの仁丹の設置場所を重ねてみると、疑問はすべて氷解します。

 と  は五辻通七本松西入、 は五辻通七本松東入でOKです。
 は確かに印から西入二丁目と言えるのでしょう。
そして、 はと言うと、無名の通りに面しているので、印から導けば確かに ”西入上ル” でなければなりません。

と言うことで、これらの仁丹は、戦前のこの近辺のまちの姿を私たちに教えてくれていたという訳だったのです。

なお、次の写真 ↓ が元々の七本松通です。



千本釈迦堂の前から南を向いて撮ったものです。正面が今出川通です。
この区間にも、「七本松通五辻下ル」の仁丹がきっとあったことでしょう。

※     ※     ※


現在の、建物疎開跡地を使用した(新)七本松通をそのまま寺之内通まで上がったところが、次の写真 ↓ です。



(新)七本松通の北のどんつきから南を見たところです。右手に公園がありますが、これが先の「建物疎開跡地利用計画地図」にある緑色で示された部分です。
つまり、公園として使用されることが決定された箇所となります。

次の写真 ↓ はその少し東側で寺之内通を西に向かって撮ったものですが、建物疎開の跡地を利用して、結果として寺之内通の一部分が拡幅された様子がよく分かります。



公園の右側、ちょうどタクシーが出てくるところが元々の寺之内通であり、元々の広さなのでしょう。違いの様子がよく分かります。

現在、寺之内通は七本松~千本間のみが突如として広くなるのですが、その謎は建物疎開にあったのですね。
さらに、拡幅後の現在の寺之内通をそのまま東に進み、千本通まで出て来たところが、この写真 ↓ です。



千本通から寺之内通を西に向かって撮ったものですが、赤の矢印の箇所に仁丹が隠れているのです。

地図で言えば  点です。アップするとこのようになります。



と言うか、アップしても見えないのですが、おそらく、「千本通寺之内上ル西五辻北町」 と表記されているのでしょう。

「建物疎開跡地利用計画地図」によれば、この付近は寺之内通の南側が疎開したようですから、北側がそのまま残ったことになります。
この仁丹、そのことを語っていることになるのでしょう。


以上、仁丹町名表示板が語る近代史は「七本松通」を取り上げてみました。


※     ※     ※



なお、ここで紹介した仁丹はすべて商標が上に付いています。
商標の位置には上と下があり、その理由は ”永遠の謎” のひとつとなっています。
詳しくは、当ブログ内の 「 商標の上と下 」 をご覧いただければと思います。



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この記事へのコメント
記事、大変興味深く読ませていただきました。
昔の京都の姿を読み解くことが出来るのは、今も、数多くの仁丹が残されていること、京都の住所が独特の表記方法であったからでしょう。普段から当たり前のように使っている呼び方なので、気にしていませんでしたが、仁丹を探すようになって、この京都独特の表記方法に誇りを持っています。

観光客の方からすると分かりにくいということを聞いたことがあります。なので、多くの観光客の方々にこの表記方法を少しでも理解していただく手段として仁丹探しがいい方法ではないかと思います。
Posted by まっちゃ at 2012年12月01日 18:34
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